文章が書かれた日付は不明。「私の麾下にあったKGL第2軽大隊が、ワーテルローの戦いで果たした役割の記述」との表題があるこの文章には、上記の記録では触れられていないいくつかの面白い記述が見つかる。
まず1回目の攻撃が始まった時間をバリングは「12時半」(p70)と記している。雑誌に載っていた「正午少し後」という表現とそれほど矛盾はしていない。この1回目の攻撃は「1時間半ほど続いた」(p71)と書かれているので、終わったのは午後2時頃だろう。このあたりは雑誌に掲載した文章には触れられていない部分だ。
続いて2度目の攻撃が行われる前に「敵は我々に半時間ほど防御のための再編をする余裕を与えた」(p71)。そして2度目の攻撃が行われ、そこで同時に騎兵の突撃が行われた、という点では雑誌の文章と同じ。ただ、一般にこのネイによる騎兵突撃は午後4時に行われたとされているが、バリングの記述を受け入れるなら彼はこの突撃が午後2時半にあったとみなしていたことになる。
2回目と3回目の攻撃の間に「約1時間」(p71)の空白があったというのは雑誌と同じ。しかしその攻撃がどのくらい続いたかについての言及はない。それからさらに4回目の攻撃が行われ、ついにバリングが退却を強いられるところは同じ。重要なのは、退却後に残った兵を再編した時間について「午後7時から8時の間」(p72)だったと言明していることだ。
バリングによれば最後の反撃が行われたのは午後9時(p72)。ラ=エイ=サント撤収から1~2時間後ということになる。通説よりは随分と遅い時間だ。一方でバリングはネイの突撃については通説より1時間半ほど早い時間を記している。1回目の攻撃も通説(1時過ぎ)よりは早い時間であり、2回目の攻撃から最終的な撤退にいたる時間が通説に比べて随分と間延びしていることが分かる。
私が前に書いた文章ではバリングの主張するラ=エイ=サント撤収時間を「どんなに早くても午後8時過ぎ」と計算したが、バリングの上記の文章を見る限り彼自身はもう少し早い時間だったと見ているようだ。だが、そうであっても現在の通説で言及される午後6時過ぎよりは明らかに遅い時間。つまり、やはりバリングの証言を「ラ=エイ=サント午後6時過ぎ陥落説」の傍証に使うのは無理ってことになる。
一方で午後6時説を裏付けるとはいかないまでも支援する記述もある。バリングの次に掲載されている第5大隊指揮官リンシンゲンが1824年11月に書いた報告がそれで、彼はその中で「午後5時、私は第5大隊を横隊で前進させ、ラ=エイ=サントを取り囲む敵を銃剣で追い返すよう命じられた」(p74)と述べているのだ。つまり午後5時時点ではまだラ=エイ=サントは落ちていなかった訳で、これは午後6時過ぎ陥落説と符丁が合う。
リンシンゲンの記録が会戦から9年以上後に書かれたものであること、バリングの記録には日付がないことなど、これらの記録があまり頼りにならないと判断したくなる面もある。一方で彼らの間では第5大隊軽中隊の派出時間など、互いに整合性の取れた記述があることも確かだ。ラ=エイ=サントの陥落時間については、まだまだ分からないことが多い。
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