続々ホーエンリンデン

 承前。ホーエンリンデンの戦いと、その前哨戦であったアンプフィングの戦闘における参加兵力や損害についてはMilitär-historisches Kreigs-lexikon"http://www.archive.org/details/militrhistorisc00bodagoog"のp357を参照。
 フランス軍の勝因が主にリシュパンス師団の行動にあったことはモローの報告書を読めば分かる。フランス軍右翼にいたリシュパンスが、どのようにオーストリア軍中央縦隊の背後に回りこんだのかについては、彼の報告書にも書かれている。
 
「司令官モロー殿
 霜月12日の戦いにおけるリシュパンス師団の報告
 師団は12日午前4時、布陣していたトゥリング、シュタインヘリング、オーベルンドルト[オーベルンドルフ?]、マルスキラーツ、及びエーバースベルクを出立してザンクト=クリストフで合流を図り、7時に全軍がそこにたどり着きました。
 7時15分から以下の順番でザンクト=クリストフからマテルポート[マイテンベート]へ移動しました。まず第8半旅団、続いて第1猟騎兵連隊と大砲3門、以上はサリュ将軍麾下で左翼旅団を構成します。続いて先頭に大砲3門、そして第48半旅団、第14軽[半旅団]の1個大隊、第5ユサール連隊から成るワルテ将軍の旅団が来ました。この旅団の後に右翼旅団が以下の順で続きます。即ち第27[半旅団]の2個大隊、大砲3門、そして第20猟騎兵[連隊]が隊列を締めます。サユーク将軍の予備が以下の行軍序列、つまり第27[半旅団]の1個大隊、大砲3門、そして第10騎兵[連隊]で続きました。
 師団はザンクト=クリストフを通過し、そして常にこれ以上前進できず諦めて退却を強いられるのではと恐れるような接近困難な山と森の小道を移動しました。我々はこの、騎兵が2リュー近くにわたって1列になる以外に行軍できない隘路を進みました。縦隊の先頭は先導を委ねられた案内人によって道に迷わされました。大きなぼたん雪が降り注ぎ、前方10歩の距離も見えない時に、ヴァッサーブルクからザンクト=クリストフへと行軍し師団の中央付近である第14軽[半旅団]の第1大隊のところへたどり着いた敵が、激しい射撃を仕掛けてきました。極めて近距離から撃ってきたため弾薬車2両を運ぶ馬匹が同時に殺され、それより背後にある全部隊の進路を塞ぎました。既に通過していた者は縦隊の先頭へと急ぎ、結果として新たな縦隊の先頭となった他の者は引き返しました。当初は多少の混乱がありましたが、さらに背後にいたドルーエ将軍が秩序と連携を回復させ、その歩兵の先頭とともに有利に戦いを進めたものの、師団の先頭との連絡を回復することはできませんでした。
 かくして兵が分断され、私は足を止めました。氷の上、沼地や森の中、そして正面20歩のところも見えないほど急峻な山に囲まれた盆地で、密集した縦隊を組みました。その間に案内人を探したところ、近くの農場で敵を発見しました。捕虜を確保し、我々がマイテンベートからたった500トワーズの場所にいることが判明しました。事実、この村は我々の左側にある高地の上、我々が麓のみを見られる丘の頂上に位置していました。
 その間、私は敵の砲撃に晒されとても危険な状態なると思われていた第5ユサール[連隊]を救援するため、第48[半旅団]の2個中隊を後方に送りました。すぐに交戦しているのは第14軽[半旅団]の大隊であることが分かりました。そこで私は分遣した2個中隊を戻しました。
 既に午前9時でした。時間を無駄にはできず、この日の成功は敵の背後に素早く進んで私が行う強力な陽動を急ぎ必要としていることが確かでした。師団の一部を犠牲にする恐れも、私をこの主な目的から逸らしませんでした。我々は後方で行われている戦闘も、そこで交戦している兵も諦め、縦隊の先頭は左に向かい、極めて険しい(マイテンベートの)高地を登りました。第8半旅団の擲弾兵中隊は(殺せと叫びながら)、一部は騎乗し一部は馬を下りていたナッサウ胸甲騎兵[連隊]に襲い掛かりました。
 村は我々のものとなりました。第8[半旅団]はそこを通り過ぎ向こう側で隊列を組みました。ほぼ同時に進出した第1猟騎兵[連隊]は右側に布陣しました。すぐに大砲6門が続き、第8[半旅団]の前、ハークからホーエンリンデンへの街道と平行に並びました。
 第48[半旅団]が到着している間、私は我々を脅かしているナッサウ=ウシンゲン胸甲騎兵と大砲8門に対して第1猟騎兵連隊に突撃させようと試みました。
 猟騎兵はいつもの熱意で敵に行軍し、戦列を組んで彼らを胸甲騎兵から隔てている主要街道を越え、サーベルを交えました。しかし我らの右翼に隠れていた敵1個騎兵大隊が我々の騎兵を第8[半旅団]の右側まで後退させました。同半旅団は敵を止め、追い払いました。
 単なる騎兵突撃でオーストリア軍の壊走を促すことが不可能であることを見て、私は到着した第48[半旅団]を第8[半旅団]の左に配置しました。それぞれ半大隊ごとに密集した縦隊を組ませ、我々は相次いで主要街道へと移動しました。街道は我々の戦線と平行に走っており、敵は既に1ダースの騎兵大隊及び大砲8門を集めていました。
 ホーエンリンデンへと行軍することでオーストリア軍の背後に襲い掛かる計画を持っていた私は、左側へと向かい、右翼側にいたサリュ大佐とワルテ将軍に私の移動に追随するよう伝えました。
 主要街道に到着した私は各縦隊を左側に転換させ、全部隊が街道上で縦隊になりました。最左翼にあって先頭となった大隊は、既にハーク[ママ]方面の森まで200歩の位置にいました。我々は大砲で散弾を3発発射し、先頭の騒音へと駆けつけてきた敵大隊から射撃を受けました。
 我々の兵は隊列を詰め、急ぎ、銃剣を交え、先頭に立つ第48[半旅団]の擲弾兵たちに鼓舞されながら前進しました。私は決定的な瞬間に「擲弾兵たちよ、やつらをどう思う?」と叫びました。「将軍、あいつらは×××です!」。この死刑宣告とともに我らの勇敢な兵たちは森の中と街道上に突進しました。その進路上で逃げ散らなかった者は全て捕虜となるか、射殺され、サーベルで切られ、銃剣に刺されました。それでも敵は4、5回、我々に対峙しました。しかし既に弾みはついており、何者も我らには抵抗できず、全てが壊走に巻き込まれました。我が将軍、あなたも戦場に積み上げられた大量の大砲、地面に転がる死体、捕虜たちの恐怖を自ら見たことでしょう。
 森のほぼ反対側の端までたどり着いたところ、竜騎兵の士官が街道上にはもはや敵の集団はなく、ネイ師団が我々に合流することを知らせました。同時にそこにいた者は全て回れ右をし、敵が背後から圧力をかけている第8半旅団と第1猟騎兵連隊を助けるべくハークへ向けて森へと戻りました。我らの兵は、オーストリア軍の歩兵と騎兵がそこを去って我々から逃げ出す時間を与える前に、森の先頭へ再びたどり着きました。
 かくしてもと来た道へ戻り、奪ったもの全ての護衛を後続の兵に委ね、我々がマイテンベートから進出したときに攻撃を受け、我々が砲兵隊の背後に移動し第一線を奪おうとしているのを見た敵を追い払いました。
 将軍、以後ハークに到着するまでの残りの出来事は全てご覧になったでしょう。私は兵が見せた勇気については沈黙を守っています。彼らが乗り越えた陣地はどのような筆を持っても十分な威厳を持って語ることはできません。我らの軍にとってかくも栄光に満ちた日に彼らが私に示した信頼と献身は、私にとって生涯の自慢です。
 名を馳せる最も素晴らしい機会を得た兵たちの名は、遅滞なくお知らせします。
 リシュパンス将軍」
Le Spectateur militaire, Tome Vingt-Deuxième."http://books.google.com/books?id=cpw8AAAAYAAJ" p261-266
 
 ただし、リシュパンスの報告にもあるように、彼の攻撃成功はかなりギリギリのタイミングだった。移動がもう少し遅れていれば全部隊が連合軍左翼のリーシュ師団(リシュパンス自身はヴァッサーブルクから来た部隊だと思い込んでいた)に進路を塞がれ、連合軍中央縦隊の背後を突くのは不可能になっただろう。逆に移動のタイミングが早すぎれば、前進してくる中央縦隊の目の前に師団単独で飛び出す格好になっていたかもしれない。
 リシュパンスの報告を読んでも、彼が敵の動きを読んだうえで行動していたようには思えない。出たとこ勝負で突き進んでいったらうまく行った、というのが実態のようだ。つまり、彼はこの戦いにおいてはとても幸運だったのだ。実際、彼の行動についてそのような指摘している人物もいる。他ならぬナポレオンがそうだ。
 
「リシュパンス将軍は軽率な行いをした。その軽率な行動は彼に成功をもたらし、それこそが戦いの成功につながった。(中略)2つの大きな軍の運命は、数個大隊の衝突によって決まった」
Mémoires pour servir à l'histoire de France sous Napoléon, Tome Deuxième"http://books.google.co.jp/books?id=1ECBVzmiDSMC" p55
 
 結果だけから判断するならリシュパンスも、彼に側面からの機動を命じたモローも、優秀な人物ってことになる。ただ、この会戦に関する限り、彼らの優秀さには幸運という要素もかなり含まれていたと考えるべきだろう。
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