続ホーエンリンデン

 承前、ホーエンリンデンの戦いについて。こちら"http://warandgame.files.wordpress.com/2008/10/hoh1.jpg"とこちら"http://warandgame.files.wordpress.com/2008/10/hoh2.jpg"の地図参照。
 1800年6月のマレンゴ会戦後に結ばれた休戦は、11月下旬に期限切れを迎えた。南ドイツのバイエルンでは休戦期間中、フランス軍がミュンヘンを含むイザール河周辺に、連合軍がその東側を平行して流れるイン河(現在のドイツ・オーストリア国境)周辺に展開していたが、休戦が終わると同時に両軍は移動を開始。12月1日(ホーエンリンデン会戦の2日前)にはイン河近くのアンプフィングで両軍が遭遇し、数で勝るオーストリア軍が勝利した。
 フランス側司令官であるモローはミュンヘン近くのホーエンリンデンまで部隊を退却させ、そこに兵力を集めた。グルニエ麾下の左翼軍団3個師団と、モロー直率の中央軍団のうち1個師団がホーエンリンデンからその北方ハートホーフェンまで戦線を敷く一方、南方のエーバースベルク周辺には中央軍団のうち残る2個師団が配置された。一方、オーストリア軍は司令官ヨハン大公の名で12月2日、以下の命令を発布した。
 
「1800年12月3日の配置
 ハークに集結した軍は、既に本日時点でイーゼンを超えてブーフへ突入しているであろうキーンマイヤー中将の師団と、12月3日にはホーエンリンデンを超えてアンツィングで合流しなければならない。このため3日の朝5時に3つの縦隊で出発する。
 リーシュ師団は左翼縦隊を構成し、アルバッヒングからホーエンリンデンへ向かう街道を確保するべく宿営地を出て、行軍の間しばしばシュタインヘリング街道に強力な偵察部隊を送り、主要街道を前進する中央縦隊との連絡を常に維持せよ。
 レッパート将軍の前衛部隊は本日2日、支援のためベニョフスキー連隊全てを増援として受け取り、またフェルディナント大公ユサール連隊も本日、前衛部隊まで前進してヴェクゼイ連隊と交代し、後者は前進してくる予備部隊を翌朝まで待ち彼らと合流せよ。
 予備部隊はベニョフスキー連隊の代わりに本日軍に到着したバイエルン選帝侯の支援部隊全部を受け取り、フェルディナント[連隊]とヴェクゼイを交代させよ。
 前衛部隊と予備はいずれも同様に朝5時に出発し、中央縦隊を組み、ホーエンリンデンへの街道をアンツィングへと前進し、左翼のリーシュ中将の縦隊及び右翼のバイエ中将の縦隊と絶えず連絡を維持せよ。
 バイエ中将の師団は同様に3日朝5時に移動を始め、オーベルンドルフ、ヴァイハー及びミットバッハを経てホーエンリンデンへ、常にアンツィングへの主要街道の右側に平行して進み、行軍の間ずっと主要街道の縦隊、及び既に本日2日時点でドルフェンからレングドルフを経てブーフへ前進しようと試みているキーンマイヤー中将と、的確な連絡を保持せよ。兵の行軍は厄介な大砲の移動によってとどめられてはならない。たとえ大砲がなくても縦隊が正しい時間に到着するなら、躊躇によって行軍が停止し信頼が失われるよりも全体の目的は確実に達成される。大砲は縦隊の最後尾か、あるいは最悪の場合でも主要街道を経て縦隊に追随できる。
 3日にはアンツィングに集結した軍の全てに食料を与えるべく、アンツィングですぐ調理ができるよう調理器具を運ぶ馬匹と肉牛を送り込み、そして翌日も可能な限り早く前進させよ。
 各師団指揮官に騎兵をより積極的に活用するよう、私は改めて推奨する。完全な平野部でなくてもそれを有利に使う絶好の機会はあるし、それによって我々の歩兵はより多くの支援を受けられる一方、敵は素早い追撃によってより破滅的な影響を受ける」
Quellen zur Geschichte der Kriege von 1799 und 1800. Zweiter Band."http://www.archive.org/details/quellenzurgesch00huefgoog" p431-433
 
 だが、相互の連携をこれだけ強調していたにもかかわらず、会戦当日はウィッカムが書いているように各縦隊の歩調が合わず、中央縦隊が突出する一方、他の縦隊は明らかに遅れをとった。そしてフランス軍はそこにうまくつけこんだ。モローが会戦翌日に記した報告を見れば、状況は分かる。
 
「司令官モローから陸軍大臣へ
 アンツィング、共和国暦9年霜月12日(1800年12月3日)夕刻
 親愛なる将軍殿、私が指揮する軍にとってとても栄誉であり、共和国にとって多大な利点となる報告を喜んで送ります。
 10日の戦闘について記した昨日の報告で、私は軍の集結と攻勢に出る計画についてお知らせしました。
 昨夕、グルニエ将軍の軍団はホーエンリンデンとハートホーフェン間に集まりました。グルーシー将軍が指揮権を握ったグランジャン将軍麾下の師団は、左翼をホーエンリンデン村に拠りました。リシュパンス及びドゥカーン師団はエーバースベルクにいました。
 私はホーエンリンデンで敵に攻撃されると予想し、リシュパンスとドゥカーン将軍にザンクト=クリストフを経てマイテンベートへ進出し、攻撃してくる敵の背後に強力に襲い掛かるよう命令しました。この移動は大胆かつ賢明に実行されました。
 敵は午前7時半頃、ホーエンリンデンへの攻撃を始めました。敵の躊躇を見てリシュパンス将軍の攻撃が始まったと私が判断できる瞬間まで、我々は敵の攻撃を食い止めるだけにとどめておきました。
 私はグルニエ将軍に攻撃を始めるよう命じました。ネイ将軍が隘路へと強力に進み、マイテンベートへの途上でリシュパンス将軍と合流しました。およそ1リュー半に広がる森に飲み込まれた敵は全て、戦死するか、捕虜になるか、あるいは散り散りとなりました。
 ネイ将軍の攻撃は、右翼を迂回しようと試みた敵の擲弾兵予備を崩壊させたばかりのグルーシー将軍の師団によって支援されました。彼らの攻撃はグランジャン及びボイエ将軍が率いました。
 リシュパンスとドゥカーン将軍の移動は多大な困難に直面しました。狭い道での行軍を強いられ、敵に完全に囲まれたリシュパンス将軍は、5個か6個歩兵大隊及び猟騎兵1個連隊とともに他の兵から切り離されました。しかし彼は背後を振り返らず、彼が持っている兵力の少なさを心配することなく敵軍の中心へと進み、同様の大胆さで参謀士官リューファンが率いるネイ将軍の師団の先頭と合流しました。ヴァルテ将軍はこの攻撃で重傷を負いました。ドゥカーン将軍はリシュパンス将軍の支援を受けてポーランド兵をどうにか突破しました。
 この成功が中央の行方を決めている間、ヴァッサーブルクからエーバースベルクへと行進してきた敵部隊が、それを食い止めるためドゥカーン将軍に右翼へ向きなおすことを強いました。彼はその敵を大いに混乱させ撃退しました。
 戦況が完全に決まったように見えた3時に、別の部隊がイン河下流から進みブルクラインからホーエンリンデンへ進出しようとしました。敵が前日、多くの兵をイーゼン河畔に集めていたため、左翼方面に攻撃があると予想していたグルニエ将軍はルグランとバストゥール師団及び予備騎兵を布陣させており、彼らは攻撃に出ようとした時に敵の攻撃を受けました。我々はネイ将軍及び他の師団のうち手元にあった兵いくらかを彼らの支援のために戻しました。
 ルグラン及びバストゥール将軍は、これらの攻撃を撃退した後で自ら敵に強力に接近し、最後にいくらかの努力を払った後で敵を崩壊させ、その大砲の一部を奪いました。この攻撃でバストゥール将軍は負傷し、ボネ将軍がすぐ後を継ぎました。
 この会戦はかなり大規模で、フランス軍の部隊で戦わなかったものはなく、間違いなくオーストリア軍でも同様でした。戦闘中、雪が絶えず激しく降っていました。
 我々はおよそ80門の大砲、200個の弾薬箱、3人の将官を含む多数の士官をあわせ捕虜1万人を得ました。追撃は夜まで続きました。我々の損害は戦死者、負傷者及び捕虜1000人と見積もられます。敵の損害は数え切れません。皆が義務を果たしました。特定の兵科を称賛することはできません。砲兵、歩兵、騎兵はいずれも最大かつ真実の称賛に値します。幕僚たちも特に名を上げました。
 霜月10日にローゼンハイムを奪ったルクルブ将軍の軍団は、イン河とティロルからの全出口の防衛を委ねられました。
 既に3つの要塞を我らに譲った会議の場所として知られているホーエンリンデンでの戦いについて、参謀長がいずれ詳細な記録を送るでしょう。共和国はここで特に名を上げた部隊と兵を知るべきです。また敵が我々の左翼後方に送り込んだものの、我々が大した注意を払わなかった分遣隊についてもお知らせするでしょう。軍はその成功と、特に和平を推進させるのに貢献したであろうとの望みに誇りを持っています。
 モロー」
Campagne des français en Allemagne, année 1800"http://books.google.com/books?id=7jE_AAAAYAAJ" p413-414
 
 なおモローの報告書の英訳は(全部ではないが)こちら"http://books.google.com/books?id=f5BBAAAAcAAJ"のp684-685でも読むことができる。それにしても史料をそのまま載せるとどうしても長くなるな。以下次回。
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