ホーエンリンデン

 ナポレオン漫画最新号は巻頭カラーでネイ将軍登場。ナポレオンの元帥たちの中で最も著名な人物とはいえ、彼が特に名を上げたのはロシア遠征の時だから1800年のこの時点ではまだそれほど有名ではなかっただろう。1799年に一度、臨時の立場で軍を指揮したことはあったが、ホーエンリンデンの戦いにおける彼の地位は単なる師団長。軍司令官であるモローはもとより、軍団長の立場にあったグルニエ、ルクルブあたりと比べても後塵を拝していたと言える。
 漫画に描かれた彼の活躍がフィクションであることは、いちいち説明する必要もないだろう。Campagne des Français en Allemagne. Année 1800."http://books.google.com/books?id=7jE_AAAAYAAJ"に収録されているライン方面軍公報(p330-、著者は参謀長のデソル)は、会戦2日前に行われた退却戦で「この日は、時に注意深く時に大胆であったネイ将軍が、彼に関する輝かしい評判を完璧に立証した」(p335)ことに言及している。ただしそれ以上、彼の行動に関する評価は見当たらない。当然ながら酒を飲んでいたことを批判するような記述もない。
 そもそも1800年12月3日のホーエンリンデン会戦"http://www.virtualarc.com/battles/hohenlinden/"で最も活躍したのはネイではなくリシュパンス"http://fr.wikipedia.org/wiki/Antoine_Richepanse"である、と主張してもおそらく分かる人はほとんどいるまい。という訳で今回はホーエンリンデンの戦いについて。
 
 まず参考文献なのだが、日本語で参考になるものは正直全く思い浮かばない。日本語wikipediaにも当該会戦の項目はないくらいだ。英語文献はずっとマシだが、それでも厳しい。現在、手に入りやすい本でホーエンリンデンについて触れているものといえばこちら"http://www.amazon.co.jp/dp/1844152790/"があるものの、3分の2近くはマレンゴに関する話であり、ホーエンリンデンへの言及はごく一部だ。それでも現在ではおそらくこの本が最も詳しい。
 無料で読める19世紀の本ならどうか。英語本としてはAlison"http://books.google.com/books?id=MgYtAAAAYAAJ"やCust"http://books.google.com/books?id=DgKgAAAAMAAJ"、さらにThiersの英訳本"http://books.google.com/books?id=DoEfAAAAMAAJ"などがあるが、いずれも通史の中の一節をホーエンリンデンの戦いに充てているだけであって、ホーエンリンデンに焦点を当てた本ではない。Battle of Hohenlindenで検索するとCampbellの詩("http://books.google.com/books?id=ei0OAAAAYAAJ" p154)の方がよく引っかかってくるくらいだ。
 結局のところ、英語を母国語にしている人にとってホーエンリンデンは他国同士の戦いに過ぎない。ナポレオンのような有名人が関与していればそれでも多少は関心が集まるかもしれないが、モローとヨハン大公ではとてもじゃないが力不足だ。そう考えればこの戦いが日本語の娯楽作品である漫画の中に登場してきたのは極めて異常な事態だとみなせるだろう。さすが長谷川哲也、俺たちの予想できないことを平然とやってのける。
 結果、ホーエンリンデンについて詳しく書いた本を探そうと思えば、当事者である国の本、つまりフランス語とドイツ語の本を探すしかなくなる。そしてようやくここで充実した文献が見つかる。
 ドイツ語では、会戦の翌年には早くもDie Schlacht zu Hohenlinden"http://books.google.com/books?id=IZVCAAAAcAAJ"という本が出版される。19世紀後半にもDie Schlacht bei Hohenlinden"http://books.google.com/books?id=1bwsAAAAYAAJ"という本が出ており、ページ数は少ないものの脚注などはそこそこ充実している。もちろん、Österreichische Militärische Zeitschriftにも一次史料を使ったホーエンリンデンの戦い関連記事は載っており、戦役開始前の動向がこちら"http://books.google.com/books?id=KqwUAAAAYAAJ"のp227-256に、開始後がこちら"http://books.google.com/books?id=z38IAAAAIAAJ"のp1-38にある。
 フランス語文献も負けてはいない。というかむしろフランス側が勝った戦いだけにフランス側の方が充実しているとすら言える。既に紹介済みのCampagne des Français en Allemagne. Année 1800もそうだが、他にもHohenlinden"http://www.archive.org/details/hohenlinden00pica"という、これまた中身の充実した本がある。
 一冊の本にまとまっているわけではないが、他にもあちこちに重要な史料が残っている。Le Spectateur militaire"http://books.google.com/books?id=cpw8AAAAYAAJ"には会戦後に書かれたリシュパンスからモローへの報告書(p260-266)が収録されているし、戦役参加者の記録としてはCorrespondance intime du général Jean Hardÿ"http://www.archive.org/details/correspondancei00hardgoog"やMémoires et journaux du Général Decaen"http://www.archive.org/details/mmoiresetjourna00histgoog"、Souvenirs du lieutenant général vicomte de Reiset"http://www.archive.org/details/souvenirsdulieu00reisgoog"などもある。
 と言うわけでホーエンリンデンについてある程度詳しく知りたければフランス語とドイツ語相手に格闘しなければならない。正直かなり荷が重い話なので、以下では関連の一次史料をいくつか日本語訳してごまかすことにしよう。まずは、搦め手になるが、オーストリア軍に同行していた英国の外交官(というかスパイの親玉)、ウィリアム・ウィッカムが会戦の翌日である1800年12月4日(木曜)にミュールドルフで外務大臣のグレンヴィル卿宛に記した手紙の抜粋を紹介しよう。
 
「軍は火曜日[2日]夜と、昨日[3日]夜明け前にホーエンリンデンに向け3つの縦隊で行軍しました。中央はホーエンリンデンを通るミュンヘンへの主要街道上を、右翼と左翼は森の中、主要街道の各側面を移動しました。
 敵を側面から攻撃する予定だったキーンマイヤー将軍の部隊はドルフェンからシュヴァーベン方面へ行軍しました。
 各縦隊は夜明け前に、さもなくば少なくとも8時から9時の間に、目的地に着くことになっていました。しかし夜の間と午前中の大半で続いた激しい雪とみぞれのため、中央の縦隊のみが8時に目的地に到着し、左翼と右翼はいずれもかなり後方に残されていました。加えてリーシュ将軍麾下の左翼は道に迷い、右のホーエンリンデンの方角へ向かう代わりに左のエーバースベルクへと行軍しました。
 この状況下で、リシュパンス将軍の[フランス軍]師団が9時に左翼と中央の間に突入したようで、中央部隊の背後で主要街道に進み、中央縦隊が正面で戦列を組み敵陣地への攻撃を始めたばかりの時に彼らの左側面と後方に襲い掛かりました。
 その後、何が起きたかについては何ら正確な情報を得られていません。どうやら混乱はすぐ回復不能なほどになり、ラムザウ高地への退却は特に砲兵に多大な損害を生み出しました。スパニオルキ[スパノッキ]将軍とロッパート[レッパート]将軍は捕虜となりました。他に同じ階級の士官が失われたという話はまだ聞いておりません。
 キーンマイヤー将軍は行軍中にエルディングから来た2個師団に攻撃され、主力軍を襲った惨劇を知って彼が整然とイーゼンへ向けて行った退却の際に、酷い損害を受けました」
A Collection of State Papers, Vol. X."http://books.google.com/books?id=WWBFAAAAYAAJ" London Gazette, p89
 
 読んでも何が何だか分からないかもしれない。実際、大敗走に巻き込まれたウィッカムにとっても何が何だか分からない敗戦だったのではないかと思われるほど、状況が混乱していた様子が窺える。状況を整理するためには、まず会戦前の両軍(特にオーストリア軍)の作戦がどうなっていたのか、そして会戦当日にフランス軍がどう動いたかを把握する必要があるんだが、今回は長くなったので以下次回。
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