花月1日、軍全体がなおオーリョの前面に布陣しており、パラッツォーロ、キアーリ及びカルチョを保持していた。敵軍がブレシアへと前進してきたため、私は軍にこの川の背後に引くよう命じた。この極めて短い行軍は損失なしで実行され、軍はオーリョの背後、左翼はイゼーオ湖、中央はカルチョ、右翼はソンチーノに布陣した。前衛部隊はポンテヴィコの対岸まで延伸した。兵が渡河した後で、私はミンチオほど防御に向いていなかったこの川に架かる橋を破壊した。それでもこの陣地は私に少なくとも2日間の小休止を与えてくれた。
花月3日、オーストリア軍が大挙してオーリョへ押し寄せた。かなりの大軍がクレモナへ行軍する間、オーストリア軍と一緒にロシア軍が左岸に位置するパラッツォーロ村の一部へ向かった。2時間の砲撃により敵はこの村を放棄することを強いられた。夕方、オーリョ河畔の農民がオーストリア軍を支援し、彼らがセリュリエ将軍の左翼で渡河するための手段を準備し、この将軍を無防備にしようとしたことを私は知った。またベルガモの山岳部を越えてきた敵が同師団の背後を脅かしていることも知った。
そこで私はアッダへの退却を命じた。セリュリエ師団はベルガモを経てレッコの橋まで後退し、そこにある防御を施した橋を守り、そこからヴァプリオ近くまで戦線を延ばした。グルニエ師団はカッサノの橋を占拠し、左翼をセリュリエ将軍の右翼まで、右翼をリヴァルタの対岸まで延伸した。そこでヴィクトール師団の左翼と連結し、同師団はロディの橋を占拠したうえでピッツィゲトーネ近くまで戦線を延ばした。そこからポー河までは前衛部隊が陣を敷いた。
ヴィクトール師団と前衛部隊の行軍には妨害されなかった。グルニエ師団は追撃してきたいくらかの軽兵を押し返した。セリュリエ師団はベルガモ近くでロシア軍前衛部隊の攻撃を支えなければならず、敵を精力的に撃退した。敵は戦死者500人を戦場に残し、我々の損害は100人に達しなかった。
私はアッダ防衛に関する将軍たちへの命令を事前に準備していた。上に述べたように配置した兵たちは相互に支援できた。そして6時間以内に敵が渡河を試みた場所に歩兵12個大隊、騎兵12個大隊、及び軽砲兵2個中隊を集めることができた。もし川岸が私の命令通りに監視されていれば、この兵数は同じ時間に敵が対岸に集めうる数より優勢になる。私は主に監視すべき川の場所を指定し、そして敵の真の意図について欺かれなければ、おそらくこの川の防衛は15日以上持ちこたえただろう。私は15日と言ったが、60マイル以上の長さを持ち、この季節には多くの浅瀬があらわになっている川の渡河をたった2万8000人で守るとした場合、おそらくとても優勢な敵であればこれだけの期間があれば突破されるであろう。そうなればこうした川の防衛を委ねられた将軍に残された手は、予め選んだ場所への後退か、あるいは全軍を集結させて敵との死闘に向かうしかない。
さらに軍を増援するため、私はヴァルテリナ師団から第39半旅団を引き抜き、他の半旅団で穴埋めするようマセナ将軍に頼んだ。ロワゾン将軍が第76[半旅団]を連れてきて、到着後にモンテロロで敵を打ち破った。第39半旅団はコモで持ち場につくよう命じられ、それからセリュリエ師団の増援に来るよう私が命じた。
花月4日朝、私は軍の全師団長にアッダ防衛に関する命令を送った。
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