花月までに起きた出来事について以下に述べよう。16日の戦いの後、マントヴァに適切な守備隊を置くことを考える必要が生じた。状況は私に前進または後退を余儀なくさせており、いずれの場合でもマントヴァはそれ自身の戦力に委ねられることになる。従ってこのイタリアの目抜き通りを長い抵抗ができる状態にする必要があった。私は6600人を入城させ、既にいた兵力とあわせてかなり大きな守備隊を編成し、1年以上の食糧と弾薬を補給した。
マントヴァ守備隊を追加した後で、私は野戦師団数を3個と前衛部隊1個に減らした。各師団は歩兵10個大隊と騎兵3個連隊相当を持ち、前衛部隊は歩兵5個大隊と騎兵2個連隊から成る。軍の戦力は実働で2万8000人であり、大砲60門を伴っていた。彼らは花月20日夕方までミンチオの陣地を保持した。その時、敵ティロル方面軍の一部がロッカダンフォを経て左翼背後にあるブレシアへと移動していることを私は知った。どの場所からも渡渉できるミンチオの戦線は持ちこたえられず、ヴァレッジョの高地を占拠している敵は私の目の前で河を渡る準備を大いに進めていた。私は軍にオーリョの背後まで下がって布陣するよう命じ、アッダの橋に兵を配置するため、及び敵対的党派がミラノから両院とチサルピナ総裁政府を排除するのを妨げるために、強行軍でやって来た。
同時に敵はポー河下流に兵を進ませ、フェラーラ下流でこの河を渡り、ポー両岸の住民を蜂起させた。私は戦時編成の歩兵3個大隊とピエモンテの騎兵2個大隊を選び、ユサール連隊を加えて、混乱を収め敵をそこから追い出せとの命令と伴にモンリシャール将軍を送り出した。花月21日、常に自分の戦力のみに帰着していたデソール将軍が、数で大いに勝る敵に攻撃され、グリューヴェンツ[ママ、グロレンツァ?]近くの陣地を放棄することを余儀なくされ、ヴァルテリナのボルミオへ後退しそこからポスキアヴォへ向かったことを知った。
それから数日後、私はナポリ方面軍をイタリア方面軍に接近させる許可を得た。私は既に芽月18日、マクドナルド将軍に対して、軍を集め、各地に守備隊を残し、私が送る最初の命令でトスカナへ向かって出発できるよう準備をせよとの命令を出していた。もし、誰もがイタリア方面軍の安全にとって必要だと思うこの対策を総裁政府が承認しなければ、この兵のトスカナ到着前に反対命令を出す時間はあると、私は彼に伝えておいた。以来、私は行軍を急がせるべく相次いで3人の伝令を彼に送った。しかしこの合流が実行されるのがいつになるかはもはや分からなかった。私は時間を稼ぎ、寸土を争うため、オーリョの前方及び後方に陣を敷いた。
私は2つの軍の合流前に敵と3度目の会戦を戦うとのアイデアを常に拒否した。事実を見ることができず、イタリア方面軍の成功のみを夢見る何人かはしつこくそれを懇願し、おそらく明白な敗北に強い安心感を抱く他の何人かもいたが、私の決断は揺らがなかった。私は政府に命じられた防御姿勢を常に維持した。それがナポリ方面軍がイタリア方面軍に合流できる時間を稼ぐ方法だった。
もし私が状況に対して最も適切な対応を選んでいるかどうか判断したければ、敵と比べた私の立場を思い出す必要がある。
ロシア軍及び敵ティロル方面軍の一部の到着によって、オーストリア軍は3万人以上の増援を受けていた。もし敵を攻撃したいのなら、私はマントヴァとペシェーラ近くに残された兵を除いても6万人以上を相手に戦うことになったのは疑う余地がない。2万8000人で6万人を相手に戦う必要があったのに、一体どんなチャンスが残されていただろうか! そしてもし私がオーリョの前方または後方で敗北していれば、フランス軍は壊滅する危険があった。2つの河の間で行われるその退却は、不可能とは言わないが極めて困難になっただろう。そしてもりイタリア方面軍がこうした敗北を喫していたら、それはナポリ方面軍にどんな影響を及ぼしていたことだろうか?
私が置かれていた状況で会戦に運命を委ねなかったことに対する満足感を、おそらく私は生涯に渡って感じ続けるだろう。オーリョとミンチオ間での会戦の勝利によって得られたであろう利点は、単に敵を後者の川の向こうまで追い払うことに過ぎなかったのに対し、その会戦の敗北は2つの軍を壊滅させ、全イタリアを我らの敵に明け渡したであろう。
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