結婚と陰謀と伝令と

 ナポレオン漫画最新号。作者は結構ジュノーを気に入っているみたいだな。たまにだが彼にスポットライトが当たる回がある。それともアブランテス公爵夫人の回想録があるから使いやすいってことなんだろうか。いずれにせよ今回は戦争シーンではないので軽く流そう。
 
 ジュノーがロールの母親に娘との結婚を申し込むシーンは、彼女の回想録にも記されている。それによればジュノーは未来の義母に向かって「あなたのお嬢さんの手を取ることを認めてもらいに来ました」(Mémoires de Madame la Duchesse d'Abrantès, Tome Troisième."http://books.google.co.jp/books?id=4nLSAAAAMAAJ" p96)と言ったそうだ。その場にはロールの兄であるアルベールもいたという。
 ジュノーがロールに対してプロポーズしたのは、実はその後のこと(p100-102)。「マドモワゼル、あなたの返事をお願いします。ウィですか、ノンですか」(p102)と聞いているのだが、親兄弟の了解を先に貰った上で当人の希望を聞くあたり、時代を感じさせる。当時としてはそれほど珍しい手順でもなかったのだろう。そう考えると自分の親の意見も聞かずに結婚を決めたボナパルトは、もしかしたら結構先進的だったのかもしれない。
 回想録によれば結婚の合意を得た後でちょっとしたドタバタが生じている。ロールの母親や兄弟は、結婚の申し込みは第一執政の同意を得たうええなされたと思っていたらしい。ところが「どうやって彼の同意を得たのか」との問いに対するジュノーの答えは「彼はまだこのことを知りません」(p105)というもの。これにはアルベールも母親も仰天した。そもそもボナパルトの同意なしに彼の部下の結婚話は決まらないし、またペルモン家には財産がなく、かつては良好だった同家とボナパルトとの関係もこの時期には冷え切っていた(と回想録には書いてある)。
 そこでジュノーはテュイルリーへと急ぎ、ボナパルトにロールと結婚すると伝えた。その時のボナパルトの反応が「そりゃ無理だ。ルゥルゥはまだ結婚できるようになっていないだろう。彼女は何歳だっけ?」(p110)というもの。このあたりは漫画の通りだが、ジュノーの答えは「あと一月で16歳です」であり、漫画とは微妙に違う。
 ボナパルトは最初はこの結婚に反対した。「彼女には財産がない」点と、彼女の母親の「頭が固い」(p110)点とが理由。それに対してジュノーは「私は義母に結婚を申し込んだ訳ではない」と逆襲。どうにかボナパルトを説得することに成功した。最後にボナパルトは笑いながら「お前は厄介な義母を持つことになるだろうな!」(p114)と言ったそうだ。以上が回想録に載っている話だ。
 ロールの回想録は、実のところあまり信頼度は高くないと見られている。こちら"http://www.napoleon-series.org/research/eyewitness/c_truth.html"にはこの時代の各回想録に対する歴史家などの指摘がまとめられているが。ロールの回想録については「事実というよりファンタジー」「生き生きとしているが信用性に欠ける」などと評価されている。ジュノーとの結婚のいきさつも、本当にここに書かれているような経緯をたどったのかどうかは不明だ。
 同じ点は、かつてボナパルトがロールの母親ペルモン夫人に結婚を申し込んだ、という逸話についても言える。この話も元ネタはロールの回想録なのだ。それによればボナパルトはまず妹のポリーヌとロールの兄との結婚を提案(Mémoires de Madame la Duchesse d'Abrantès, Tome Second."http://books.google.co.jp/books?id=n3LSAAAAMAAJ" p44)。次にロールとルイまたはジェロームとの結婚を申し出て(p46)、最後に自分自身とペルモン夫人の結婚まで言及した(p47)という。
 この話はフランス語wikipedia"http://fr.wikipedia.org/wiki/Laure_Junot_d'Abrant%C3%A8s"でも「疑わしい」と書かれているくらいであり、おそらく他に裏づけのない話なのだろう。もちろんフィクションのネタにする分には全然問題ないんだが、それにしてもばあさんとの濃厚なキスシーンなどというどこに需要があるのか不明なシーンを描くのはいかにもこの漫画らしい。
 
 モローが陰謀家の首領に祭り上げられた場面だが、セント=ヘレナのナポレオンはその原因をある女性に求めている。モローは1800年11月に結婚した(Bonaparte et Moreau"http://www.archive.org/details/bonaparteetmorea00pica" p295)のだが、結婚相手の母親が野心的な人物であった、というのがナポレオンの指摘。母親は娘を通じて婿にも影響を及ぼした。
 「彼女は彼の性格を変えた。彼はもはやかつてと同じ人間ではなかった。彼は陰謀を巡らしはじめ、彼の家はあらゆる不満分子の集結点となった。彼は宗教の復活と1801年の政教条約に対し、反対するだけではなく陰謀を企てた。彼はレジオン=ドヌールを愚弄した」(Mémoires pour servir à l'histoire de France, sous Napoléon, Notes et Melanges. Tome Premier."http://books.google.co.jp/books?id=lm5IAAAAYAAJ" p41-42)というのがナポレオンの指摘。これがどこまで事実なのかは不明だが、面白い話ではある。
 
 大陸軍戦報は1800戦役の残りをカバー。ヨハン大公の年齢が「八十歳」になっているのは単なるミス(実際は18歳)だろう。それとは別に取り上げておきたいのは「[マレンゴ]会戦がまだ終わらぬうちに勝利の報を副官ラデツキー大佐に持たせウィーンに派遣したメラス」の部分だ。
 ラデツキーが報告を運んだという話は、少なくともGeorge Armand Furseの"1800 Marengo and Hohenlinden"(1903年出版)には載っている。そこには「[勝利の]声明を運ぶよう命じられたのはラデツキー大佐だった」(p385)と書かれているのだが、彼がどこからラデツキーの名を引っ張り出してきたのかは不明。基本的にde Cugnacなどの本を参照しながら書いているFurseが何の根拠もなくラデツキーの名を出したとは思えないし、もっと古い文献があっても不思議はないんだが、現時点ではそうした史料は見つけられていない。
 いずれにせよラデツキーが報告を運んだという話は嘘だろう。他ならぬラデツキー自身が記した回想録を見る限り、そう判断するしかない。1887年に出版されたMitthelungen des K. K. Kriegs-Archivs."http://books.google.co.jp/books?id=kKsSAAAAYAAJ"に掲載されているErinnerungen aus dem Leben des FM. Grafen Radetzky. Eine Selbstbiographie.には、Furseの紹介する話とは全く異なることが掲載されている。
 ラデツキーによればフランス軍が後退を始め、味方が勝利に沸いた時に「戦闘の冒頭に強い打撲傷を負ったメラスはアレッサンドリアへ戻った」(p55)。しかし、参謀だったラデツキーは参謀長ツァッハとともに戦場にとどまった。そして彼はフランス軍の逆襲によりオーストリア軍が敗走した時も軍とともに戦場に残っていた。
 
「同じ恐慌状態にとらわれた2個竜騎兵連隊も同様に逃げ出し、全員が壊走するまで恐怖をあたりに振りまいた。ツァッハと私、及び何人かの参謀将校たちは、脇道にある水でいっぱいの水路を前に立ち止まった。私と将校たちは追撃してくる猟兵たちの銃弾に追われながら水路を跳び越えたが、ツァッハは足を止め捕虜となった」
p56
 
 ツァッハがつかまる直前まで戦場で彼のそばにいた人間が、それより以前にアレッサンドリアから報告書を持って出発することは、身体が2つない限り不可能。オーストリア軍の敗走前に勝利の報告が送られたのがたとえ事実だとしても、それを運んだのがラデツキーでないことは、彼自身の自叙伝を見る限り間違いない。
 たとえラデツキーが自叙伝の中で間違いを書いており、本当は彼こそが報告を運んだ当事者だったとしても、ラデツキーはウィーンにたどり着いてはいない。なぜなら会戦からたった3日後の6月17日にラデツキーがアレッサンドリアにいたことが史料から確認できるからだ。同日付でアレッサンドリアから出されたソマリヴァ宛の命令の文末に「軍司令官の命令により、ラデツキー大佐」との文言が残されている(Quellen zur Geschichte der Kriege von 1799 und 1800, Zweiter Band."http://www.archive.org/details/quellenzurgesch00huefgoog" p322)。
 ラデツキーがたった3日でアレッサンドリア―ウィーンの往復を成し遂げるのは不可能だろう。両者の距離は直線で600キロもあるうえに、途中にはティロルの山脈が横たわっている。いやそもそもラデツキーの自叙伝にも、オーストリア側の半公式戦史であるMrasの文章にも記されていない「メラスが書いた報告書」なるものを信じる方が無理がある。少なくともラデツキーはそんなものを運んでいないと考えた方が、よほど史料との矛盾が少なくてすむ。前にも指摘した"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/52605656.html"通り、メラスの報告書なるものの存在は怪しいとみなした方が安全だ。
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