マレンゴ劇

 ナポレオン漫画、気がついたらまたもや新しい号が出ている。とにかく先月号の分だけでも書いておこう。
 
 話としてはマレンゴ会戦が終幕を迎えたところ。ドゼー最後の登場シーン(第一執政の妄想でしかないが)をもってこれで本当にさよならだろう。ちなみにドゼーのラストについては匿名の報告書(おそらくローリストンのもの)によれば以下のようになる。
 
「そして突撃が始まった時、ドゼー将軍が斜めに飛来した弾丸に撃たれた。弾は心臓の上を貫き、右肩から飛び出した。(中略)振り返ると彼が落馬するのが見えた。近づいてみると彼は死んでいた。彼の近くにいたルフェーブルを呼ぶ時間しかなかった。彼[ドゼー]は軍服を着ていなかったので、兵は彼に気づかなかった。ルフェーブルに彼を運ばせ、私は第9[半旅団]とともに前進を続けた」
http://www.simmonsgames.com/research/authors/Cugnac/ArmeeReserve/V2C8French.html p412-413
 
 de Cugnacはこの報告をもとに、予備軍公報"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/source/marengo_nap.html"に紹介されているドゼーの末期の台詞がフィクションであると判断している。この話は広く知られており、実際に漫画でもドゼーは何の言葉も残さず死んでいった。
 
 ナポレオンが1805年にマレンゴの古戦場を訪れたのは事実だ。その時の様子は当時の新聞にも書かれていたようで、こちら"http://books.google.com/books?id=ig9DAAAAcAAJ"にはモニトゥール紙からの抜粋として、アレッサンドリア発の花月16日(1805年5月6日)の記事が載っている。
 
「日曜日、午前10時、両陛下[ナポレオンとジョゼフィーヌ]はマレンゴの戦場を訪れた。そこには第27軍管区の全兵力が集結しており、戦列歩兵30個大隊、軽歩兵4個大隊、騎兵7個大隊を構成していた」
p25
 
 ここで言う日曜日とは5月5日のことだ。さらに抜粋ではなく全文はAbeille du Nordなる新聞の1805年5月21日付紙面"http://books.google.com/books?id=iDRGAAAAcAAJ"で確認可能(p298-299)。もしかしたらモニトゥール紙からの転載かもしれない。それによれば「陛下は4時間にわたり、マレンゴの戦場のど真ん中で兵を機動させた」(p298)そうだ。ジョゼフィーヌは用意されたテントの下でこれを見ていたそうで、皇帝が嫁の前で自慢するためのイベントだったことが分かる。
 ただし、ナポレオンが5年前の服装を着用して出てきたという話は新聞記事の中にはない。この挿話を伝えているのはボーセ=ロケフォールの書いたMémoires anecdotiques sur l'intérieur du palais et sur quelques événemens de l'empire, Tome Premier."http://books.google.co.jp/books?id=AyAPAQAAMAAJ"だ。
 
「普段は極めて簡略な服装をしており、親衛猟兵または擲弾兵大佐以外の軍服は決して着用しないナポレオンが、驚いたことに擦り切れ、ところどころ裂けた執政政府時代の古い将官用軍服を着用して我々を出迎えた。手にはペルシャ製の金糸を編んだ大きく古い帽子を持っていた。皇帝の部屋を去る時、この衣装と帽子がマレンゴの戦い当日に着用したものであったこと、そして私が気づいた服の穴はオーストリア軍の銃弾によってできたことを知った」
p36
 
 ボーセ=ロケフォールは実演の後にレジオン=ドヌール勲章の授与が行われたことに言及しており、そのあたりは新聞記事とも符合する。一方で新聞と矛盾した言及もある。それは日付だ。彼はこのマレンゴ再演が会戦からちょうど5年後の6月14日に行われたと書いているのだが、これは新聞と照らし合わせても明らかに間違いだろう。Correspondance de Napoléon Ier, Tome Dixième"http://books.google.com/books?id=IrrSAAAAMAAJ"を見ても6月14日にナポレオンはブレシア近くのモンティローネにおり(p618)、マレンゴからは遠く離れた場所にいた。
 ただ、新聞記事にも微妙な部分はある。記事文末には「本日月曜日[5月6日]、両陛下はパヴィアへ向かうべく午後1時に出発した」("http://books.google.com/books?id=iDRGAAAAcAAJ" p299)とあるし、Itinaraire général de Napoléon"http://books.google.com/books?id=GhYwAAAAMAAJ"でも6日の夜10時にパヴィアに到着したと書かれている(p230)一方、ナポレオン書簡集によれば実は7日時点でアレッサンドリアから出した手紙が存在するのだ("http://books.google.com/books?id=IrrSAAAAMAAJ" p608)。
 本当に6日にパヴィアへ移動したなら7日付のアレッサンドリアから出した文章が存在するのはおかしい。しかし書簡集以外では6日にパヴィアに移動したという史料が複数あり、しかもうち一つはリアルタイム性の高い新聞記事である。いったいこれはどう考えるべきなのだろうか。
 ここから先は個人的想像でしかないが、間違っているのは7日付のドゥクレ宛の手紙ではないだろうか。間違っているのが日付の方か、それとも場所(本当はパヴィアと書くべきところをアレッサンドリアと間違えた)なのか、そのあたりは分からないが、少なくとも新聞記事よりは信頼性に問題があると考えるべきだろう。新聞が皇帝の移動日程について嘘をつく必要はないし、むしろ誤りを書いたら拙い。それよりはドゥクレ宛の手紙に一部間違いが混入したと考える方が無理が少ないように思える。

 ちなみに漫画ではこのマレンゴの野外演劇にランヌ、ヴィクトール、ミュラ、ベルティエ、スーシェ、マセナ、ダヴーといった連中が参加していたように描かれているが、おそらくフィクションが含まれているだろう。少なくとも現場にいたことが間違いない人物は、新聞を見る限りランヌのみである("http://books.google.com/books?id=iDRGAAAAcAAJ" p299)。
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