シェレール本・9

Précis des Opérations militaires de l'Armée d'Italie, depuis le 21 ventôse jusqu'au 7 floréal de l'an 7."http://books.google.com/books?id=I1jUIeHbyL0C"
 
 右翼の戦闘は止むことなく4時間続いた。左翼の4個師団に押し戻された敵だったが、ヴィクトールとグルニエ師団に対しては持ちこたえていた。そして彼らはヴェローナから新たな兵を押し出し、ヴィクトール及びグルニエ師団に対し烈火の如き再攻撃をしてきた。血腥く執拗な長い戦闘の後で、これらの師団はかなり数で勝る敵に圧倒され、イゾラ=デラ=スカラへの後退を余儀なくされた。
 デルマ師団の右後方へと広がっていった敵の砲撃が、これら2個師団の退却を私に伝えた。だが彼らを助けられる兵力はなかった。というのも、差し迫った危険なしにデルマ師団をそこから外すことはできず、この部隊は退却をかばうため右後方へと展開した。
 この師団に食い止められた敵は、のんびりと追撃してきた。彼らがこの移動を実行したのは夕方6時以降だった。私がモロー将軍に関する消息を聞けたのも、やっとこの時間になってからだった。相次いで送り出した3人の士官は戦死するかたどり着けなかった。しかしながら参謀長が彼のところに到着し、夕方になって戻り、この将軍が常に敵を押しながらヴェローナ近くまで前進したと私に知らせた。
 2個師団の退却によって私に残された選択肢は、夜の間にセッティモの左1リューの場所に位置するヴィガージオの村まで後退しそこに3個師団を集めるようモロー将軍に命令を送る以外になくなった。
 モロー将軍は敵に追撃されることなくこの命令を実行した。私は夜明けにイゾラ=デラ=スカラへ行った。そこではデルマ師団が戦闘配置につき、ヴィクトールとグルニエ師団のドゥイカステリ及びカスティリオーネ=マントヴァーノへの後退を守っていた。
 将軍たちの作戦を批判する必要があると望む者たちは、モロー将軍がヴェローナ前面の陣地を離れることに同意しなかったと主張している。この見解は間違っているうえにたちが悪い。それはモロー将軍が軍事的な知識をほとんど持っていないと仮定しているようなものだ。この士官は、会戦の少し後にヴェローナから1リュー離れた場所で孤立した2個師団が5万人のオーストリア軍を相手に支えられると信じるには、あまりにも優れた将軍だった。もし彼がその場所にとどまっていれば、オーストリア軍は夜明けに必ず彼を包囲しただろう。モロー将軍は単にこの日の夕方、ヴィガージオで私と合流した時に、もし状況を知っていた場合、自分だったら翌日の夜明けに後退する方が好みだと言っただけだ。
 18日、私は軍をより集中して布陣させた。2個師団がミンチオを渡り、残り4個は右翼をサン=ジョルジオに、左翼をモリネッラの水源に置き、正面をこの運河に守られていた。
 様々な会戦と戦闘によるフランス軍の損害は、戦死及び捕虜が3500人、軍の後方へ運ばれた負傷者が5000人近くだった。敵の損害はほとんど倍に達しており、捕虜もそれを認めていた。この最後の戦闘では、極めて珍しいことだが、押し戻された師団が900人近くの捕虜を得ていた。戦場にはオーストリア兵が散乱していた。他の師団は約2000人の捕虜を集め、大砲も奪った。
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