気がつけばもう月末も間近。急いでナポレオン漫画をフォローしておかないと。と言っても今月号は途中からフーシェ無双のフィクション一直線なのであまり書くことはないかも。
さて史実と比べて最大の問題となるのはメラスの話。「メラスは勝利を確信すると腕の負傷と疲れのために戦場を離れアレッサンドリアへ。母国に勝利の報告をした」という部分だが、これの裏づけはどこにあるのか。
アレッサンドリアへ引き返したという部分はKarl Mrasの記したGeschichte des Feldzuges 1800 in Italien.の中で指摘されている。この記録はマレンゴ戦役について記した事実上の公式戦史であり、副題に「オーストリア側の一次史料に基づいた」とあることから、それなりに信頼度が高いものだと思われる。その中に以下のような記述があるのだ。
「メラスは真昼前後に勝ち誇った軍を離れた。夕方には軍は圧倒され、完全な崩壊を心配される事態に陥っていた」
p257
どうやら負傷したメラスが戦闘の行方が定まる前にアレッサンドリアへ引き上げたのは事実らしい。だが、彼が司令部で「母国に勝利の報告をした」という話はどうなっているのか。少なくともMrasの本にはそうした記述が見当たらない。メラスは本国に報告を記したのか、記さなかったのか。
Hermann Hüfferの記したQuellen zur Geschichte der Kriege von 1799 und 1800, Zweiter Band."
http://www.archive.org/details/quellenzurgesch00huefgoog"にはマレンゴ会戦時のオーストリア側の一次史料が紹介されている。しかし、それを見る限り会戦当日の6月14日にメラスが出した文書は、当日の戦闘に向けた具体的な作戦計画を記した命令(p309-312)と、兵士たちに当てた命令(p313-314)だけ。どこにも「母国に」記した勝利の報告なるものは載っていない。メラスの本国宛報告が出てくるのは会戦の3日後、6月17日付が最初だ(p325)。
もちろんこの本が全ての史料を掲載している保証はない。載っていないだけで、実はそうした史料があったとも考えられる。でもそんなものがあるのならMrasが指摘していてもおかしくない。だがMrasはそんなことを書かなかった。そして実際、Mrasの文章が発表された1823年の直後に書かれた書物には「母国への報告を記した」という部分が欠落しているのだ。代表例がWalter ScottのThe life of Napoleon Buonaparte, Vol. I."
http://books.google.com/books?id=lXpAAAAAYAAJ"(1827年出版)。そこにはメラスが引き上げたことは書かれているが、母国に報告を書いたという文章は見当たらない。
メラスの「報告」が文献上に登場してくるのは、私が探した限り1832年出版のThe History of France, Vol. III."
http://books.google.com/books?id=HzgOAAAAYAAJ"まで下る必要がある。その中に「マレンゴで勝利を掴んだと見たメラス将軍は、報告を書くためアレッサンドリアへ引き上げた」(p161)という一文があるのだ。だが報告の内容などは記載されておらず、指揮権を引き継いだ人物もMrasの書いているカイム中将ではなく、参謀長のツァッハになっている。
メラスの報告文の中身まで言及した書物が最初に世に現れるのはおそらく1834年。イタリア人Pietro Collettaが記したStoria del Reame di Napoli, Tomo I"
http://books.google.com/books?id=rhcOAQAAIAAJ"の中に、以下のような文章がメラスの報告として掲載されている。
「マレンゴの平野における長く血腥い戦いの後、皇帝陛下の軍はイタリアに連れてこられボナパルト将軍が指揮したフランス軍を完全に打ち破りました。戦いの詳細は、中将オットとツァッハが戦場で集めている勝利の成果同様、後の報告でお伝えします。アレッサンドリア、1800年6月14日夕」
p459
さらに同書にはその後でメラスが記した次の報告なるものも載っており(p459)、その日付は「6月14-15日真夜中」となっている。
この報告書なるものが胡散臭いことは読めば想像できるだろう。まず同書に紹介されている報告がHüfferの本に全く見当たらないことがある。14日夕方の第一報だけでなく、14-15日真夜中の第二報もない。加えて第一報の中でluogotenenti generali Ott e Zachという具合にオットと並んで中将扱いされているツァッハは、実はマレンゴ会戦の時点では少将に過ぎなかった"
http://www.napoleon-series.org/research/biographies/Austria/AustrianGenerals/c_AustrianGeneralsYZ.html#Z1"。そもそもメラスが指揮権を与えたカイムの名が報告書中に一切でてこないのも怪しい。
オーストリア軍の史料に実際に当たった半公式戦史の著者(Mras)が触れていない史料を、ナポリ史を書いているイタリア人(Colletta)がどうやって見つけ出したのかも謎だ。後にCollettaの本を丸ごと引用したPier Desiderio Pasoliniは、そのあたりの辻褄を合わせるためか、この手紙はナポリ王妃(ハプスブルク家の女性)に宛てたものだと書いている(Die Saekularjahre"
http://www.archive.org/details/diesaekularjahr00pasogoog"のp391-392参照)。しかし本国に報告を書いたかどうかも怪しいのに、単なる王家の親族に過ぎない女性にわざわざ戦闘の経緯を伝える文章を記したと考えるのも難しい。
つまるところ、メラスが報告を書いたという明白な証拠は見当たらなかった。証拠がない以上、この説は受け入れない方が安全だろう。George Armand Furseは"1800 Marengo and Hohenlindenの中でこの文章を本国宛の文章の一部として紹介している(p385)が、いささか軽率な扱いだと思う。
以上までが今回のメーン。後は簡単に。ケレルマンの突撃はこちら"
http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/source/marengo_kel.html"を参照してほしい。彼の率いた兵力について漫画は「4百の騎兵」としているが、元ネタの可能性が高いのはサヴァリー(Mémoires du duc de Rovigo, Tome IV."
http://books.google.com/books?id=VtdWAAAAMAAJ" p221)である。しかし、サヴァリーが出しているこの数は、彼の主張によればケレルマン自身が1818年10月8日付の手紙で記したものということになる(p219)。
もしそうだとすればケレルマンは矛盾することを述べている。会戦直後の1800年6月15日に書いた報告には「150騎に減少していた第6、第2及び第20騎兵連隊からなる旅団は第1及び第8竜騎兵連隊の2個中隊の集団と合流した」とある。なのに1818年に書いた手紙には「ケレルマン将軍には第2及び第20騎兵連隊に所属する400騎しか残されていなかった」と記しているのだ。結局のところ彼の麾下にはどの部隊がいてその兵力はどのくらいだったのか、本人を呼び出して問い質したいところである。
フーシェの陰謀については基本フィクションなので特に言うことはない。フーシェ自身は回想録の中で、ボナパルト敗北の情報が伝わった時にまず2人の執政のところへ向かい、彼らを勇気づけたと主張している(Mémoires de Joseph Fouché"
http://books.google.com/books?id=YPqbE2jifdwC" p181)。さらに情報を欲しがって自宅に訪れた連中に対しては、噂は誇張されていること、ボナパルトは常に戦場で奇跡を成し遂げてきたことなどを述べて、落ち着かせようとしていたんだそうだ。この証言がどこまで信じられるかは神のみぞ知るってとこか。
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