シェレール本・7

Précis des Opérations militaires de l'Armée d'Italie, depuis le 21 ventôse jusqu'au 7 floréal de l'an 7."http://books.google.com/books?id=I1jUIeHbyL0C"
 
 軍は10日夕方、新たな配置に就いた。軍の中央はアルバレドの対岸に位置し、3個師団がアディジェと向かい合い、4番目は右翼で予備となった。モロー将軍が指揮する2個師団は私の左翼で直角に布陣し、ブッタ=プレダ[ブッタピエトラ]村とタルタロ川水源を占拠し、ヴェローナからの動き全てに注意を払った。
 この陣を占めることで私は2つの計画を持っていた。1つはヴェローナかレニャーゴ下流で強行渡河を試みるもの。後者の場合、私の架橋部隊はタルタロを経てカルピまで行くことができた。もしこの計画が実行できないなら、私は全軍を左翼か右翼、ヴェローナとレニャーゴのいずれかから出撃してくる兵に差し向けるのが可能だった。私の司令部は全軍の中央、イゾラ=デラ=スカラに置かれた。
 1人の将軍がイタリアのような土地でより幸運に恵まれるのは、よいスパイがいて初めて可能だ。なぜならこの国は非常に広く木々に覆われ、運河が交差しているため、敵の真の位置を知るのがほとんど不可能だからだ。私の約束、さらにはばら撒いた金をもってしても、私が有能で賢いスパイを手に入れるのは常に不可能であった(こうした体制はずっと前に準備されておくべきだった)。一方、敵は彼らへの献身を示す者を全土に持っており、私が陣を敷くや否やその位置を知っていた。
 後方から増援を受けた敵は芽月14日午後、モロー将軍が指揮する師団に対する強行偵察を試みに来て撃退された。この将軍は14日から15日にかけての夜間に、この偵察から察するに敵はすぐ彼を攻撃する意図を持っていると推測し、その場で戦いを受けるか敵に向かって前進するかについて命令を求めてきた。私は午前2時に、ヴィクトール師団に対してモローの部隊と平行に戦線を敷くように、そして他の3個師団に左翼の3個師団を倍増するべく強行軍を命じると返事をした。
 私の右翼から左翼までの距離はたった6リューしかなかったにもかかわらず、事態は一刻を争った。既に極めて悪かったマントヴァ周辺の道は打ち続く雨のため台無しになっており、右翼の3個師団が到着する前に敵が左翼への攻撃を始める恐れがあった。
 私は敵の意図を見誤ってはいなかった。彼らは15日を全面攻撃の準備に当てていた。一方、私はグルニエ及びデルマ師団に対し、軍の残りと合流すべく強行軍をせよと命じた。この命令は14日から15日にかけての夜間に出され、各将軍は夜明け前にそれを受け取った。
 この行軍は極めて重要な思考に私を導いた。実は私はマントヴァ周辺の地図を軍内で一枚も発見できなかったのだ。共和国暦4年以来、我が軍はこの地域を占領していたにもかかわらず、地図が作成されることも、この地域に関する偵察がなされることも、道路について調べることもなかった。そのため私は多かれ少なかれ不正確な古い地図を信用することを余儀なくされ、軍が進む道路を無作為に示すことを強いられた。デルマ師団が行軍中にこの不利益を蒙った。ブッタ=プレダへ通じる道は通行不能だったため、彼らは多大な迂回を強いられ、不快な時間と憎らしい道を経た15時間に及ぶ行軍にもかかわらず、彼らが戦場にたどり着くことができたのはようやく極めて遅い16日になってからだった。
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