シェレール本・5

Précis des Opérations militaires de l'Armée d'Italie, depuis le 21 ventôse jusqu'au 7 floréal de l'an 7."http://books.google.com/books?id=I1jUIeHbyL0C"
 
 6日の戦い直後、私はヴァルテリナ師団を指揮するデソール将軍に関する情報を得るため士官を派遣した。私はヘルヴェティア軍の師団との合流をとても当てにしており、すぐにこれら2個師団の将来の作戦に関する命令を作成したほどだ。突然、デソール将軍が自分の戦力のみでやって来たことを私は知らされた。彼はその戦力だけでサンタ=マリア峠を突破することを余儀なくされ、それからグロレンツァに布陣する敵を9000人で攻撃した。グロレンツァはメラノとトレントへ通じる峡谷の先端にある。
 ヘルヴェティア軍がルツィエンシュタイクを突破しグリゾン地方を奪取した後で、ほぼ全軍を左翼へ投入したことを私は知った。ルクルブ将軍はフンスタームンツ近く、イン峡谷のナウダースにまで行軍していた。
 デソール将軍はサンタ=マリア峠を強行突破した後で、グロレンツァ付近の敵を面前にした。彼にとって退却は攻撃よりも危険だった。彼は躊躇うことなく優勢で有利な陣を占める敵に向かって行軍した。芽月5日、彼は敵を圧倒し、1200人以上を殺し、4000人以上の捕虜と敵の大砲全てを得た。だがルクルブ将軍の師団が合流しなかったため、ティロルの中央に突入してトレントへ前進するには弱すぎた。彼はそこで停滞し、グロレンツァの上方に布陣した。
 ヘルヴェティア軍が命じられた私への救援を送り込んでくるまでかなりの時間がかかるため、イタリア方面軍の1個師団は麻痺した状態となり私にとって何の役にも立たなくなった。
 この致命的な状況下で、イタリア方面軍はその後の難しい部隊配置を迫られた。もしヘルヴェティアの師団がヴァルテリナ師団と合流し、グリゾン地方占領の後でトレントへ行軍してさえいれば、疑いなく敵はアディジェの防御を放棄することを余儀なくされる立場となっていただろう。
 結局のところ、私は布告された戦役計画にあったよりも2万1000人も少ない兵力で戦役を始め、継続しなければならなかったことが分かる。というのも、一方ではヘルヴェティア軍の師団が私を支援せず、他方では本来ならイタリア方面軍の一部を構成していたはずのヴァルテリナ師団もグロレンツァ近くで麻痺していた。そして最後に私は戦役が始まる前に既にトスカナ占拠のため7000人を野戦軍から派出することを余儀なくされていた。イタリア方面軍が蒙った敗北はこれらの要因に割り当てられるべきであり、決して他の原因を求めてはならない。
 ドナウ方面軍がラインへ後退したことを知るや否や、私はイタリア方面軍が合意された戦役計画を守れなくなると予想した。左翼のティロルにオーストリア軍が、そして正面にヴェローナの軍がいる状態では、計画履行を保証できなかったからだ。
 加えて私は確かな情報として、6日の戦いの直後にヴェローナのオーストリア軍と合流するようカール公子がロシア軍に命じたと知らされた。いくつかの部隊はその場所に陣を敷いた。また、このロシア軍の行軍はラインで起きたことの必然的な結果だった。ドナウ方面軍が後退し、ヘルヴェティア軍はグリゾン地方とシャフハウゼンからバーゼルまでのライン河畔の陣地に集結してこれ以上ティロルを脅かさなくなったため、ドナウとティロルに関するあらゆる懸念から解放された敵がイタリア方面軍に投入できるもの全てを送り込んでくるのは自明だった。
 教育を受けていない者は、パストレンゴの戦い後に私はアディジェに架かる2つの橋を使い、続けてヴェローナへと行軍し、この地を攻撃し大胆な襲撃によって奪取すべきだったと主張した。この論法には戦争に関する重大な無知が現れている。おそらく会戦と同じ日であれば逃亡兵にまぎれてヴェローナに入城するのは可能だっただろう。だが予想しなかった出来事が、私にこの見込みを残してくれなかった。
 敵がポロに持っており、それを使ってヴェローナへの退却を実行した2本の橋のうち、一つは彼らの手で破壊された。前衛部隊は2番目の橋に向けて精力的に追撃を行い、敵にその橋を切断する時間を与えなかった。だが前衛部隊の400人がようやくこの無傷で残った唯一の橋を渡ったところで、橋の上部に使われていた大きなボートが壊れ、川の速い流れに引きずられて我々の手元に残った橋の2艘のボートを破壊した。修復には5時間以上を要した。敵をヴェローナまで追撃する機会は過ぎ去った。強化され5万人に守られた町に城門を閉める時間だけを与えてしまえば、そこを強襲で奪うことはできないからだ。
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