続・カールとアンリ

 ジョミニとクラウゼヴィッツ。今では後者が圧倒的に有名で前者はほとんど知られていないが、かつてはジョミニも広く知られていた、というかジョミニの方が有名だった。なぜその評価が入れ替わってしまったのかについては色々な理由があるのだろう。ここで調べるのは理由ではなく、いつ両者の評価が入れ替わったか、である。

 Google bookにNgram Viewerという機能"http://books.google.com/ngrams"がある。これを使えばGoogle bookに収録されている1800年以後に出版された本の中で、あるキーワードがどの程度存在したのかを調べることができる。これを使ってジョミニとクラウゼヴィッツというキーワードがそれぞれどの程度、出版物の中にあったのかを調べられる。で早速調べてみたんだが、何とジョミニが全く検索に引っかからない。おまけにクラウゼヴィッツも1950年代以降にならないと出てこないのだ。ダメじゃん。
 どうやらジョミニもクラウゼヴィッツも、こちらが思っていたよりずっとマイナーな存在だったようだ。ではどうするか。Ngram Viewerが使えないなら手動で調べるしかない。Google bookのAdvanced Book Search"http://books.google.com/advanced_book_search"を使えば出版時期を絞り込んでの検索が可能。1801年から10年ごとにJominiとClausewitzで検索をかけ、その結果を比較してみることにしよう。
 だがその前に結果を予想してみよう。まずジョミニだが、彼が著作の出版を始めたのは1800年代初頭から。フランス語Wikipedia"http://fr.wikipedia.org/wiki/Antoine_de_Jomini"によれば1805年出版のTraité de grande tactiqueをはじめとして彼は次々に著作を出している。今では彼の代表作と見られているPrécis de l'art de la guerreの出版は1838年。つまり19世紀の前半が主に彼の活躍した時期だと見られる。ちなみにジョミニは1869年死去と、かなり長生きしている。
 次にクラウゼヴィッツ。ドイツ語Wikipedia"http://de.wikipedia.org/wiki/Carl_von_Clausewitz"によれば彼も19世紀初頭から執筆活動を始めている。ただ、生前の彼の著作はその大半が雑誌などに掲載されたもののようで、まとまった著作としてはやはり1832年から出版された戦争論に代表される全10巻本が代表だろう。彼の死(1831年)後に出されたこの一連の著作こそがクラウゼヴィッツの知名度を上げる要因になったと見られる。
 著作物の出版ではジョミニが先行し、クラウゼヴィッツは後から出てきた。では彼らの知名度はいつ逆転したのか。一つのきっかけと思われるのは普仏戦争(1870-71年)。モルトケの知名度が高まったこの戦争によってクラウゼヴィッツの知名度も上がった言われている一方、ナポレオンの名を持つ皇帝が敗れたことでナポレオン1世の配下として有名になったジョミニの評価が下がった可能性はある。
 間違いなくクラウゼヴィッツの方が有名になっていた筈と思われるのは第一次大戦の頃だ。そうでなければリデル=ハート"http://en.wikipedia.org/wiki/B._H._Liddell_Hart"がクラウゼヴィッツ批判本を出して知名度を高めることもできなかっただろう。クラウゼヴィッツが権威であったからこそ、それに対する批判が意味を持ちえた。つまり、クラウゼヴィッツの知名度がジョミニを抜いたのは早くて1870年代、遅くても1910年代と予想できる。
 さて、この予想は正しいのか、結果を示す。左から検索期間、ジョミニの検索結果、クラウゼヴィッツの検索結果。
 
1801-1810 1980 18
1811-1820 35000 188
1821-1830 38200 380
1831-1840 30600 3730
1841-1850 10400 1980
1851-1860 11800 9770
1861-1870 20200 12700
1871-1880 9500 8830
1881-1890 9370 5200
1891-1900 9980 7930
1901-1910 7890 11400
1911-1920 3240 9270
1921-1930 1910 4600
1931-1940 2220 6940
1941-1950 1780 7980
1951-1960 2320 10900
1961-1970 3940 21700
1971-1980 3980 27100
1981-1990 5080 43000
1991-2000 6070 47400
2001-2011 9550 52000
 
 検索結果の絶対値はあまり参考にしない方がいいだろう。それぞれの時期に出版された書籍全体の点数も違うし、Google bookの検索自体あまり正確ではない。あくまで相対比較を重視した方がよさそうだ。
 で、これを見る限り1801-50年、つまり19世紀前半はジョミニ無双だったことが分かる。クラウゼヴィッツの本が出版された1830年代にはクラウゼヴィッツの検索結果も増えているものの、ジョミニに比べればずっと小さいまま。ジョミニの知名度をひっくり返すところには全然届いていない。クラウゼヴィッツの知名度が上がったのは、著作の出版だけではなく他の要因があったと考えるべきだろう。
 だがその後の動向は今一つ説明がつけにくい。まず1851-60年にクラウゼヴィッツが急速にジョミニに接近しているのだが、この時期にプロイセン軍が欧州の戦場で活躍したという話は聞いていない。それに1861-70年にはまた引き離されているのも意味不明。それも含め19世紀後半の動向はどう解釈すべきなのか難しい点が多い。はっきりしているのは、この19世紀後半の時期を通じてクラウゼヴィッツの知名度がジョミニに迫ったこと、しかしジョミニを抜くには至っていないことだ。
 クラウゼヴィッツがジョミニを逆転するのは20世紀に入ってから。第一次大戦時には彼は既に明確にジョミニを上回っており、おかげでリデル=ハートも無事にクラウゼヴィッツ批判を繰り広げられる。20世紀後半になると両者の差は圧倒的なまでに開いてしまい、クラウゼヴィッツの検索件数は常にジョミニの4倍以上、時には5倍近くまで達している。第二次大戦以降、ジョミニは(クラウゼヴィッツとの比較で言えば)ほぼ忘れられた存在になってしまった。
 もちろん、今も傾向は同じ。日本のアマゾンで本を検索すると「ジョミニ」で引っかかるのが7冊しかないのに「クラウゼヴィッツ」は79冊もある。まさにクラウゼヴィッツ無双だ。
 
 生前は知名度が高く、著作も広く読まれていたのに、今では知名度がずっと下がってしまったジョミニ。一方、生前はあまり知られず、死後になって著作がまとめられ、時間を経てどんどん有名になっていったクラウゼヴィッツ。まさに栄枯盛衰、盛者必衰である。
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コメント

No title

少尉
こんにちは。
前に挨拶もなく引用からで失礼しました。
以下は完全な推測ですが、戦績より出版・言語関係があるのではないでしょうか。
一次大戦後にアメリカが出てくるまで、仏語は貴族・外交官など国際公用語でしたが、独語は欧州語になりつつありました。日本にも医学や技術関連の外来語はドイツ由来のものが少なくありません。ジョミニの本の言語が仏語と思ってますけど。
それにドイツの参謀はよく喋りたがりますし、それが主要な輸出品かのようにあちこちに顧問などで派遣されていました。
それにジョミニが軍人の経歴があっても私人として本を出していたのに、クラウゼヴィッツは没後とはいえ公人の本です。ドイツ軍人たちが手をとりやすかったでしょう。

こんな背景があったのではないでしょうか。
ただの推測でしかないですけれどね。

No title

desaixjp
google bookには言語を限定して検索する機能もあるので、それで世紀の変わり目前後を調べてみました(1871-1930)。するとこの期間中jomini及びclausewitzに言及している書物のうち、ドイツ語の文献は37%、英語は32%、フランス語は31%を占めていました。確かにドイツ語の比率が少し高くなっています。
ただし年代毎に落差は激しく、例えば1910年代は英語が53%を占めています。そしえ英語文献でclausewitzとjominiの逆転が起きたのがまさにこの1910年代です(実はフランス語文献でも逆転しています)。
どうやら1900年を境とした逆転は単にgoogle bookの検索に引っかかるドイツ語文献の比率が高かったため(39%)に生じたものに過ぎず、本当の意味でclausewitzがjominiを抜いたのは1910年代、つまり第一次大戦になってから、と見た方がいいのかもしれません。
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