シェレール本・3

Précis des Opérations militaires de l'Armée d'Italie, depuis le 21 ventôse jusqu'au 7 floréal de l'an 7."http://books.google.com/books?id=I1jUIeHbyL0C"

 私は風月21日にミラノに到着し、30日までそこにとどまった。その間にチサルピナ共和国の総裁政府と、その領地に関する対応や戦役開始に必要なものについて協力し、軍の集結に関する命令を出した。
 野戦軍は歩兵と騎兵で5万人の戦力を持ち、戦時編成の大隊とフランスの騎兵連隊から引き抜かれていた。加えて1万から1万1000人のピエモンテ、ポーランド、スイス及びチサルピナの外国兵がいた。
 野戦砲兵は様々な口径からなる八十数門の野戦砲で構成されていたが、大砲輸送に必要な馬匹1500頭がいなかった*。
* 供給を委ねられた会社は実際に馬匹を送ってきたが、軍務にはふさわしくない状態で、ほんの僅かな数だけが受領された。
 ピエモンテとチサルピナ各地は、イタリア方面及びナポリ方面軍に2万4000人以上を徴兵されたため極めて弱体で定数を大きく下回っていたフランスの守備隊23個大隊が守っていた。加えてピエモンテ兵及びチサルピナ兵の守備隊数個大隊と、騎兵の兵站拠点があった。
 野戦軍は歩兵と騎兵で約6万1000人の戦力があったが、ここからピエモンテの治安維持に必要と思われる数を減らさなければならなかった。この状況下で利用できる戦力を構成したのは歩兵4個大隊と騎兵2個連隊で、この小規模な部隊の構成人数はおよそ...5000人。
 トスカナの部隊は騎兵と歩兵合わせて...7000人。
 ヴァルテリナの師団が...6000人。
 合計...1万8000人。
 この計算によれば、野戦軍には歩兵と騎兵で4万3000人が残る。砲兵と工兵は含まない。
 交戦を開始するようにとの命令を受けた時にどのような出来事にも対処できるよう、私はこれら全戦力にマントヴァに集まるよう命じた。
 この季節にはポーの両岸をある程度ぬかるんだ土地が縁取っているためフェラーラとボローニャはしばらく敵の大軍が集結する舞台にはなり得ないように思われたため、私はそこの防衛にいくつかのフランス守備隊大隊とピエモンテ1個大隊、及び騎兵150騎のみ残した。
 ブレシアとベルガモの山地はこの季節は通行不能なため、私はブレシア、ベルガモ及びペシェーラを守備隊4個大隊のみで占拠した。加えてヴァルテリナの師団及びヘルヴェティア軍の師団が私の左側面を守り、トレントへ前進することになっていた。
 芽月初旬、全軍がマントヴァに集められた。私はトスカナを占拠した。この征服には一発の銃弾も必要なかったが、私がそこに送った兵はその地に残った。数多いオーストリアの支持者を抑え込むために必要だった。
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