グンビンネンのネイ

 1812年12月15日 グンビンネン

「中將ドマス曰ク吾クンビン子ンニ在リシ時一朝髯長ク色衰ヘ汚外套ヲ着ケテ我室ニ入ル者アリ吾ニ向テドマス君吾辛クシテ此所ニ来レリ卿吾ヲ記スルヤト云フ吾記セスト答フ彼吾ハ我カ軍ノ殿ナリコーフー橋ニ於テ銃ヲ發スル吾ヲ以テ最後トナスニーメン河ニ兵噐ヲ投棄スルモ亦吾ヲ以テ最後ト爲ス吾林中跼蹐シテ今僅ニ此ニ逹シタリ吾ハ大將子ーナリト云ヘリト」
英人某「拿破崙第一世傳」 近代デジタルライブラリー"http://kindai.ndl.go.jp/"

 ロシアから退却した大陸軍最後の一人、ネイ元帥がデュマの前に現れたシーンは有名だ。明治時代の文献で早くもこの話が紹介されているし、両角良彦も著書の中で以下のように述べている。

「十二月十五日の夕刻、国境沿いのポーランドの町ガムビンネンでマシュウ・デューマ将軍は食卓についていた。そこに乞食のようないで立ちの一人の男がぬっと現われた。ひげは伸び放題、髪は乱れ、破れたフロックコートを着ている。将軍はこの不潔な男を放り出させようと召使を呼んだ。
 ――おい、デューマ、俺を忘れたかい。大遠征軍の後衛を承ったネイ元帥だ。コヴノの橋で最後の一発を放ち、銃をニエーメン河に抛りこみ、ここまで森を抜けてやってきたところだ……。いや、腹が空いた。スープを一杯ご馳走になれんかね……」
両角「1812年の雪」p216

 元ネタになっているのはデュマ自身の回想録。そこでは以下のように記されている。

「我々が素晴らしいコーヒーを飲んでいた時、茶色の大外套を着た一人の男が入ってきた。髭が長く伸び、その顔はまるで焼かれたかのように黒ずんでいた。血走った目が光っていた。『ようやく着いた』彼は言った。『デュマ将軍、私を知らないのか』『知らない。誰かね』『大陸軍の後衛を務めたネイ元帥だ。コヴノの橋で最後の一発を撃ち、ニェーメン河に我々の最後の武器を投げ入れ、森を抜けてここまで来た』。私は尊敬の念を抱いて退却戦の英雄を迎えた」
Mathieu Dumas "Souvenirs du lieutenant general comte Mathieu Dumas" p484-485 Gallica"http://gallica.bnf.fr/"

 ネイの伝記やロシア遠征を描いた本の中で、この話はコヴノでの最後の戦闘と並んでしばしば紹介されているものだ。もっとも、多くの本はコヴノの戦闘シーンについてその場にいなかったと見られるセギュールやコワニェの回想録から引用していたりするので、あまり信用はできない。
 実際、上に紹介した両角の本にもデュマの回想録にはない「いや、腹が空いた。スープを一杯ご馳走になれんかね」などという台詞が挿入されているし、同じ文章はRaymond Horricksの"Military Politics"やRonald Frederic Delderfieldの"Napoleon's Marshals"にも見られる。彼らがデュマの回想録に目を通すことなく本を書いたのは間違いないだろう。

 そうしたいい加減な本に対する怒りが原因になった訳でもないだろうが、中にはセギュールやコワニェだけでなくデュマの回想録すら信用できないと否定する人もいる。ネイの伝記を記したA. Hilliard Atteridgeがそうだ。彼によるとネイの後衛戦のラストシーンは以下のようになる。

「彼はコヴノへ引き返すのではなく、森が散らばる右の方角へと兵を率い、ティルジット方面へ向かうニェーメン西岸の街道へ出た。(中略)
 コヴノの下流5マイルのところでネイはティルジット街道から外れ西方の森へ行進した。(中略)ネイと第3軍団は14日の夜を森の中の村で過ごした。(中略)15日、ネイは指揮権をマルシャンに譲り、良い馬の牽く橇に乗ってケーニヒスベルクへ急いだ。彼の軍団の残骸は20日にそこで彼と再合流した――当初の戦力3万5000人のうち200人のみが残り、うち半数は負傷者だった」
Atteridge "Marshal Ney" p139

 伝記を記すにあたりデュマの回想録を採用しなかった理由について、Atteridgeは次のように記している。

「ネイとグンビンネンで出会ったというデュマ将軍のロマンティックでドラマティックな物語も同様に根拠がない。ニェーメンを渡った後でネイはグンビンネンへの道がコサック兵に占領されているのを知り、ティルジットを経由してケーニヒスベルクに到達するしかなかった、という簡単な理由のためだ。(中略)
 既に述べた物語のあり得なさに加え、コヴノ橋での射撃やニェーメン河へ投げ込まれた武器がなかったことも理由に加えられる。河は凍りついておりコサック兵は氷の上を渡河することができたのだから」
Atteridge "Marshal Ney" p213

 Atteridgeの指摘はどの程度妥当なのだろうか。まず、ネイがティルジット経由でケーニヒスベルクに向かった点だが、ティルジット街道へ向かったこと自体は現場に居合わせたフェザンサックの記録でも裏付けられる。

「しかしそこでネイ元帥が現れた。どれほど絶望的な状況でも彼はほんの少しの動揺も示さなかった。彼はケーニヒスベルクへたどり着く希望を持ってニェーメン河を下流へ向かいティルジット街道へ出ることを決断した」
Paul Britten Austin "1812: The Great Retreat" p421

 だが、Austinによればその後でネイは「コヴノ橋から約6マイルのところで左へ曲がり小道へ入った」(Austin "1812: The Great Retreat" p421)。これはAtteridge自身「コヴノの下流5マイル」のところでネイがティルジット街道から外れたと記しているのと一致する。コヴノとティルジット間は100マイル近くもある。5―6マイル動いただけでティルジット街道から外れているのだからネイがティルジット経由で移動していないことは明らかだ。
 そして、コヴノ―グンビンネン間は80マイル強とかなり距離がある。5マイル程度横に逸れただけならば、いずれグンビンネン街道へ復帰することも難しくはなかっただろう。街道を封鎖していたコサック兵を迂回するのに5マイルほど横へ動いたと考えれば、それほどおかしな行動ではない。
 もう一つの「ニェーメンは凍りついていた」だが、河が凍っていたからと言ってネイが橋のところで後衛戦闘をしてはいけない理由にはならない。確かに凍った河に武器を投げ込むのは無理だが、そもそも軍人はしばしば自身の参加した戦闘を大げさに語りたがる傾向があることを考えれば、ネイの言葉を理由にデュマの記録を嘘と決め付けるのも難しいだろう。

 一般に知られている話を無批判に再掲載しているような本がいいとは思わない。またデュマの回想録自体もロシア遠征から四半世紀以上後に出版されたものだけに、決して信頼性が高いとは言えない。だが、それでもデュマの記録は一次史料だ。それを否定するなら明確な証拠が必要。Atteridgeの唱える異説には十分な証拠があるとは言えないのではないか。

スポンサーサイト



コメント

No title

desaixjp
ナポレオン関連だとThiersは伝説をばら撒いた諸悪の根源みたいな存在のようですね。 アルフレート・ファークツは「ミリタリズムの歴史」の中で「ティエールは、将軍たち――オシュ、クレベル、ドゼ、ボナパルト――の軍事的功績の賛歌を奏でることによって、さえずるひばりのように自らの出世の道を上っていった。(中略)一度も軍務に服したことのない小ブルジョアであるティエールは、軍隊のなかに過去におけると同様に、現在における栄光と騎士物語とを発見した」と書いています。 彼は歴史と物語を混同していたのかもしれません。
非公開コメント

トラックバック