シェレール本・2

Précis des Opérations militaires de l'Armée d'Italie, depuis le 21 ventôse jusqu'au 7 floréal de l'an 7."http://books.google.com/books?id=I1jUIeHbyL0C"
 
 しかしながら政府が2つの軍を指揮させるため送り出したこの男は、軍事的評価を得ていなかったのか? 彼は勝利と無縁だったのか? 彼の盾には、フランス兵にとって最も喜ばしい褒賞である栄誉ある銘が全く刻まれていなかったのか? フランス軍の栄光に関する素晴らしい絵巻を広げて見れば、戦士たち、我らの武器の名誉を築き上げた者たちの中に私の名を見つけ出すことができる。そこにはサンブル河畔で勝利を得られた2つの戦いと、数日後に強襲で奪われたモンス及びモン=パリセルの戦いがあり、私がその成功に果たした役割を証明してくれている。
 我らの敵の希望である4つのフランスの要塞は、彼らに1年の労力と夥しい流血を払わせた。公安委員会はこれらを再征服するよう私に命じ、それは電光のような共和国の攻撃によって6週間で陥落した。かつて私の戦友であったベルナドット、クレベール、デジャルダンは自分たちがあなたの勝利の桂冠を分かち合うにふさわしいかと聞いたものだ! 必要とあればその証拠を求められるのがあなただからだという理由で。
 さらにウルセ河畔とエヴェイユ河畔では血腥い戦いがベルギーの運命を決し、スプリモンでは私が勇敢な兵たちを勝利へと導いているのが見られた。
 ローエル河畔のデューレン近くでは、スプリモンの戦場から逃げ出した敵が、山に積み上げられた防御陣地に守られていた。私はそこへ我が兵士たちを率い、敵をそこで攻撃し、これを打倒し、ラインの向こう岸まで追撃した。フルーリュスの勝者ジュールダンよ、これらの記録が信頼に値するかどうか話してくれ!
 ピレネーの向こう側、フルーヴィア河畔では、デュゴミエがその死によって英雄たちの、しかしなから数は少ない軍を残した。私はスペイン軍と戦い、6万人を超える敵に全戦役を通じて一握りの勇敢な兵で抵抗した。
 公安委員会は私にアペニンの山頂へ駆け上るよう命じた。敵は今日同様、フランス南部を脅かしていた。共和国暦4年霜月2日、私はイタリア方面及びピレネー方面軍の兵士たちの真価を率い導いた。敵は山々の山頂から追い落とされ、イタリアの平野まで追撃された。イタリアの門戸はこの勝利の音に開かれた。いくどもの勝利に輝いたマセナ、オージュロー、ジュベールよ、私は諸君を指揮するに値しただろうか?
 決して立場を求めたことはなく、その素晴らしい実績に匹敵する地位に決してつかなかった人物が、主張された軽蔑の念と忘却によって、かつていた栄誉ある地位からどうして突然に落ちてしまえたのだろうか。
 否、彼はフランス兵の名にふさわしくない行いはしなかった。否、彼は祖国の名誉を危うくはしなかった。もし私の指揮下にある軍が敗北を喫したというのが真実なら、それこそ私がこれまで縷々述べてきた勝利の桂冠を真っ先に曇らせるだろう。しかし否、私は共和国軍の記録に屈辱を与えるような敗北は喫しなかった。私は正確な真実を話し、私が指揮を執った短い期間において過去の軍務で獲得した栄光の一部を奪い去るようなことは何もしていない点を証明するであろう。
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