カールとアンリ

 クラウゼヴィッツの本といえば戦争論が有名。原著の題名はVom Kriege、英語ではOn Warとして知られるこの本は、日本でも戦前から翻訳されている。一方、19世紀においてはクラウゼヴィッツと並んで有名だったジョミニのPrécis de l'art de la guerre、英語ではThe Art of Warで知られる本の方は国内ではずっとマイナーで、戦後になってようやく英語からの重訳本が出たくらいだ。戦前日本陸軍がドイツを参考にしていた面もあるのだろう。
 だが、クラウゼヴィッツの本は別に戦争論だけではない。そもそも彼の死後に妻がまとめた本は全10巻にわたっており、そのうち戦争論が占めるのは最初の3巻だけである。Hinterlassene Werke über Krieg und Kriegsfuehrungという題名で出されたこのシリーズの大半を占めるのは、実は軍事理論本ではなく軍事史に関する本だ。
 
 第4巻の題名はDer Feldzug von 1796 in Italien."http://books.google.com/books?id=jL03AQAAIAAJ"。題名通り、ボナパルトによる1796年のイタリア遠征を扱ったものだ(目次を見る限りは1797年のフリウリ戦役まで含まれている)。続く5巻"http://books.google.com/books?id=8L03AQAAIAAJ"、6巻"http://books.google.com/books?id=LlsMAQAAMAAJ"はDie Feldzüge von 1799 in Italien und der Schweiz.という題名で出されている。こちらはスヴォーロフが大活躍した1799年戦役を取り上げている。
 第7巻は1812年から14年までの戦役をカバーしている"http://books.google.com/books?id=mJ5DAAAAcAAJ"。戦前に翻訳され、戦後も「ナポレオンのモスクワ遠征」という題名で出版されたものは、おそらくこの本の1812年戦役分だけを翻訳したものだろう。第8巻のDer Feldzug von 1815 in Frankreich."http://books.google.com/books?id=8UkMAQAAMAAJ"は題名通り、ワーテルロー戦役を扱ったもの。英訳をこちら"http://www.clausewitz.com/readings/1815/"で読むことが可能だ。
 第9巻"http://books.google.com/books?id=S0oMAQAAMAAJ"と第10巻"http://books.google.com/books?id=xU8MAQAAMAAJ"はナポレオン戦争以外を扱ったもの。第9巻ではグスタフ=アドルフやルイ14世、テュレンヌ、リュクサンブール元帥"http://fr.wikipedia.org/wiki/Fran%C3%A7ois-Henri_de_Montmorency-Luxembourg"らを、第10巻はソビエスキ、フリードリヒ大王、ブラウンシュヴァイク公などを取り上げている。
 1799年戦役の扱いがやたらといいとか、ナポレオンの絶頂期が完璧に無視されているとか、いろいろ気になる部分はあるが、いずれにせよクラウゼヴィッツが理論もさることながら軍事史に関する著作についても力を入れて書いていた様子が窺える。でも、現代では彼の書いた軍事史に関する部分はほぼ無視されているのが実態だ。別に国内だけでなく、例えば英語圏でもOn Warは山ほどあるがクラウゼヴィッツが書いた1799年戦役の本の翻訳などは見たことがない。
 なぜか。一般の読者にとって19世紀初頭以前の軍事史など関心の埒外だからだ。理論なら現在にも応用できるかもしれないが、既に終わった過去の歴史、もはや使われない武器と使われない戦術を駆使した時代の軍事史など、何の役にも立たない。そういうのをわざわざ掘り出して読むのは一部マニアや専門家くらいだ。いや、専門家ですらきちんと全てに目を通しているかどうか疑わしい(少なくとも日本でクラウゼヴィッツ関連の書籍を出している専門家たちの、この時代に関する歴史知識を見る限り)。
 労を惜しむなという言葉はよく使われるし、一般的に言えば正しい見解だが、でも大多数の人間はこの言葉を「無駄にならないことには労を惜しむな」と解釈している。そして、200年以上昔の軍事史について知識を蓄えるのは誰がどう見ても「無駄な労力」なのでだろう。クラウゼヴィッツ好きな、つまり軍事理論好きな連中が、クラウゼヴィッツが労を惜しまず描き出した彼の同時代の歴史に関する知識に疎いのも、それが無駄だから。確かに「クラウゼヴィッツは1799年3月26日の戦闘に関してオーストリア軍がヴェローナに2万9000人を配置したと書いている("http://books.google.com/books?id=8L03AQAAIAAJ" p176)が、他の史料を見る限りこの数は約2万人と見るのが正しいんじゃなかろうか」などという知識は、現代社会では100%役立たない。
 ただ、それで大丈夫なんだろうかという不安はある。クラウゼヴィッツは自分が体験した戦争を基に理論を組み立てたのだろう。なら、その理論を見るうえで彼が体験した戦争についての知識はあった方がいいし、どうせなら詳細に知識を持っている方が通り一遍の知識よりは望ましい。でも、現代の軍事理論家がこの時代の軍事史についてそこまで詳しく知る機会があるようには思えない。
 
 ちなみにジョミニの方はクラウゼヴィッツよりさらに軍事史関連著作の比率が高い。彼の本として有名なのはフランス革命戦争を描いたHistoire critique et militaire des guerres de la Révolutionだが、これの第2版は実に全15巻に及ぶ大作となっている。またナポレオンの伝記形式で書かれたVie politique et militaire de Napoléonは全4巻、他にもフリードリヒ大王の戦争に関する本などもあり、軍事史関連での著作はかなり大量である。
 一方、彼の理論をまとめたPrécis de l'art de la guerreは2巻本。軍事史について記した量に比べると圧倒的に少ない。軍事理論家としてはクラウゼヴィッツに比べてかなり忘れ去られた存在となっているジョミニだが、元々著作の量を見る限り彼は理論家というよりは歴史家に近かったのかもしれない。
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コメント

No title

少尉
>1799年戦役の扱いがやたらといいとか、ナポレオンの絶頂期が完璧に無視されているとか

ご存知でしょうが、クラウゼヴィッツはコレラで急死してしまったのでしょうがないのでは?
現在のも遺稿を妻がまとめたものですし。
連載を開始して長編を視野に入れた漫画家が伏線を残すだけ残して不運に見舞われたみたいに、意図的に無視したのではなく結果そうなっただけの気がします。

No title

desaixjp
はじめまして。ご指摘の通り、クラウゼヴィッツの遺稿がたまたまそのあたりのものしかなかった可能性は充分にあると思います。もし彼がもっと長生きし、自分の考えをきちんとまとめた著作集を出していたら、どのようなラインナップになっていたのか。それが分からないのは残念なところです。
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