パストレンゴ

 今回はマニアックな話。1799年春、イタリア方面軍の司令官に任命されたシェレールは、アディジェ川沿いに展開するオーストリア軍に攻撃を仕掛ける決断をした。彼らがロシア軍の増援を得て圧倒的な数的優位を確保する前に事態を打開しようとするのが狙いだったと思われる。フランス軍の最初の攻勢が行われたのは3月26日だが、この時の戦闘についてChristopher DuffyはEagles over the Alps"http://books.google.com/books?id=qHgOAQAAMAAJ"で以下のように述べている。
 
「シェレールはどうにか彼の左翼、つまり北方において効果的な戦力集中を達成し、そこではモロー麾下の3個師団がパストレンゴの宿営地から5000人のオーストリア軍を追い払った(中略)。シェレール自身は2個師団と伴に、その地にいるオーストリア軍の動きを止める狙いでヴェローナのすぐ傍まで接近した(後略)」
"Eagles over the Alps" p46
 
 オーストリア軍に攻撃を仕掛けた6個師団のうち、モローが左翼を、シェレールが中央を率いたという話だ。こうした話は昔からあり、例えば1814年出版のMemoirs, &c. &c. of General Moreau"http://books.google.com/books?id=jHjSAAAAMAAJ"でも「モロー将軍は3個師団から成る左翼を指揮した(中略)。シェレールは自ら中央を率いた」(p141-142)と書いているし、1806年出版のThe life and campaigns of Victor Moreau"http://books.google.com/books?id=fxBEAAAAYAAJ"もモローが左翼の3個師団を率いたのに対し「シェレール自身が指揮したフランス軍中央の2個師団」(p155)と記している。
 ところが、実はこうした話を見かけるのは英語圏の文献だけなのだ。大陸語圏の本を見ると、違うことが書かれている。例えばクラウゼヴィッツがドイツ語で記したDie Feldzüge von 1799 in Italien und der Schweiz, Erster Theil."http://books.google.com/books?id=g6sWAAAAQAAJ"には「彼[シェレール]はセリュリエ、デルマ及びグルニエ師団の戦力2万2000人で[左翼側の]パストレンゴ宿営地を攻撃しようとした(中略)。モローはヴィクトール及びアトリ師団の戦力1万5000人でヴェローナのオーストリア軍陣地を攻撃する」(p179-180)とある。
 ジョミニのHistoire Critique et Militaire des Guerres de la Révolution, Tome Onzième."http://books.google.com/books?id=4y4PAAAAQAAJ"にも「モローはアトリ及びヴィクトール師団と伴に、ヴェローナを牽制することで陽動を行った」(p133)と記されており、モローが主力(左翼)ではなく牽制用の部隊(中央)を率いていたと指摘している。もっと古い1801年出版のHistoire du général Moreau"http://books.google.com/books?id=dW4wJOc7bWMC"も、モローの率いた部隊はヴェローナ及びレニャーゴから出撃する敵に対応したとある(p147)。
 ロシア人の歴史家であるミハイロフスキ=ダニレフスキが記した歴史書のドイツ語訳、Geschichte des Krieges Russlands mit Frankreich, Erster Band."http://books.google.com/books?id=GGhKAAAAYAAJ"にも、やはりモローが率いたのはヴェローナを攻撃した2個師団であると記されている(p192)。
 
 どうしてこうなったのか。それぞれ論拠としたソースが違ったためだと思われる。Duffyら英語圏の連中が参照したのはトーマス・グレアム。1800年に出版された彼のThe History of the Campaign of 1799 in Italy"http://books.google.com/books?id=dl8UAAAAQAAJ"には「帝国軍右翼を攻撃した3個師団から成る[フランス軍]左翼は、モローが指揮した(中略)。シェレール自身が率い、2個師団と予備部隊から成るフランス軍中央は、ヴェローナを守る前哨線を攻撃した(後略)」(p14-15)との文章がある。確かにモローが左翼を、シェレールが中央を指揮したと書いてある。
 だが、シェレール自身の言い分は異なる。彼が書いて1799年に出版されたPrécis des Opérations Militaires de l'Armée d'Italie"http://books.google.com/books?id=I1jUIeHbyL0C"には「モロー将軍指揮下の3個師団はヴェローナとレニャーゴをカバーし、これらの地点からアディジェ右岸を経てパストレンゴに到着し得る救援を陽動し止める役目を担う。そして私は他の3個師団と伴に敵の防御を固めた宿営地へ行軍する」とある。モローの担当は中央と右翼、残り(つまり左翼)がシェレールだ。
 
 グレアムも戦役参加者であることは確かだが、でも彼は連合軍側の一員。フランス側の事情についてはフランス側の証言の方が正しいと見ていいだろう。実際、英語圏の著者の中でもRamsay Weston Phippsのように「シェレール自身が率いる左翼3個師団はペシェーラ東方から出発した(中略)。中央ではモローが2個師団と伴に、ヴィクトールを左翼にアトリを右翼に置いて前進した(後略)」(Phipps "The Armies of the First French Republic, Volume V" p254-255)と記している例がある。
 少し調べれば分かることとはいえ、グレアムの記録が多くの人を惑わせているのは事実。彼がなぜモローとシェレールの役割を入れ替えたのか、その理由は分からないが、人騒がせであることは確かだ。
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