ティエールがでっち上げたフィクション、「ドゼーは自分の判断で砲声に向かって進んだんだよ」「なんだってー」については、発表直後から批判の声が続々と寄せられた。彼のHistoire du consulat et de l'empire, Tome Premier"
http://books.google.com/books?id=vM5xeOML8B8C"が出版されたのは1845年。そしてその翌年に出版された本の中には早くも「間違っている」との指摘が載っている。その本の著者はベルーノ公ヴィクトール。マレンゴで戦ったあのヴィクトール将軍(後の元帥)である。
実のところティエール本に対するヴィクトールのツッコミは全部で100項目以上に及んでいる。別にドゼーの件だけを問題視している訳ではない、というかツッコミどころ多すぎ。ドゼーの部分に関するヴィクトールの指摘は以下の通りだ。
「ティエール氏は、ボナパルトからの命令を受け取る前にドゼーがマレンゴに向けて出発したと主張している。デュポンやブーデの報告、そして何よりドゼーがサン=ジュリアーノに到着した時間が、そうではなかったことを明白に証明している。だが、グルーシー元帥に痛撃を与え、たとえある1日に失敗したとしてもそれまで25年間に素晴らしい貢献を成し遂げた老人を悲しませるためには、真実を棚に上げる必要があり、そしてティエール氏は躊躇いなくそうした。実に寛大な話ではないか!」
Extraits de Mémoires inédits de feu Claude-Victor Perrin"
http://books.google.com/books?id=rNZBAAAAcAAJ" p268
グルーシーを批判するためにドゼーの話を持ち出す人間は現在でも数多く存在するが、それがどれほどいい加減な議論であるかについてヴィクトールは辛辣な皮肉を交えながら指摘している。彼の指摘が正しいのなら、ティエールにはグルーシーを批判するため嘘の歴史をでっち上げた疑いがある。そんな嘘の歴史が現代になっても生き残り、大手を振ってまかり通っているのは、まさにこの世の不条理を象徴するものだろう。グルーシーには深く同情する。
ティエール本出版の9年後に出た本でも、やはり彼の本の誤りが指摘されている。こちらの本の著者はフランソワ=クリストフ=エドゥアール・ド=ケレルマン。マレンゴで突撃したあのケレルマンの息子であり、ティエール同様に歴史家兼政治家を務めた人物だ。既に出版から9年経過したティエール本の影響はかなり広まっていたようで、ケレルマンは「ドゼー将軍は砲声に呼び戻されたと言われている。これはマレンゴの戦いについて広まったあらゆる話に付け加えられた誤りである」(Histoire de la campagne de 1800"
http://books.google.com/books?id=9tybcxAJ7_AC" p155)と書いている。ケレルマンの結論も「彼[ドゼー]は第一執政の命令によって呼び戻されたのが真実」である。
ヴィクトールがブーデの報告書を読み、それが史実に最も近いと判断していたのは間違いないだろう。ケレルマンも、ドゼーの行動は第一執政の命令に従ったものと見なしている点で、ヴィクトールと立場は同じ。それに対し、マルモンは異なる見解を持っていた。彼の回想録が出版されたのは1856年以降だが、マルモン自身は1852年に死去しているので、回想録はそれ以前に書かれたものだろう。その中で彼はマレンゴのドゼーについて以下のように記している。
「ガルダンヌ将軍の間違った報告を受けた第一執政は、敵が戦うのを避けジェノヴァへ後退しているものと信じ、彼らの通行に立ち向かうためドゼー将軍率いるブーデ師団をノヴィ方面へ送り出していた。彼は大慌てで[戦場へ戻れと伝えるため]士官を送ったが、戦闘の騒音を聞いていたドゼー将軍が、想定していた敵の退却がないゆえにおそらく送られてくるであろう命令を待とうとその移動を停止したため、簡単に連絡を取ることができた」
Mémoires du Duc de Raguse, Tome Deuxième"
http://books.google.com/books?id=lbuprDbizD8C" p128-129
砲声を聞いて行軍を止めたという話は、サヴァリーと同じだ。ドゼーが自主的判断で行動した点においては、ヴィクトールやケレルマンよりはティエールに近い立場と言ってもいい。
歴史家の中にはこれを理由に「ドゼーは自発的に砲声に向かって進まなかったかもしれないが、砲声を聞いて自ら行軍を停止したんだよ」「なん(以下略)」という説を唱える者もいる。Histoire de Desaix"
http://books.google.com/books?id=5WRBAAAAIAAJ"などがその一例で、「マルモンは貴重な目撃証人だ。サヴァリーはそれを補完している」(p275)と述べている
とはいえ少し考えれば分かるとおり、これは成り立たない説。ドゼーの副官だったサヴァリーは確かに「目撃証人」になれるが、予備軍の砲兵指揮官だったマルモンがドゼーと一緒に行動していたとは思えない。彼の回想録は単にサヴァリーを参照して書いたものに過ぎないだろう。
サヴァリーの信頼性がブーデより劣る点については、もう一つ傍証がある。会戦当日のおそらく午前中に書かれたと思われるブーデ師団の参謀副官ダルトンによる報告("
http://www.simmonsgames.com/research/authors/Cugnac/ArmeeReserve/V2C7French.html" p351)がそれだ。そこには午前9時まで砲兵部隊がスクリヴィア河畔に到着しなかったこと、夜の間に第9軽歩兵半旅団の渡河を進めようと努力した一方、残る第30及び第59半旅団は右岸のサレッツァーノの丘にとどまったままであることなどが記されている。
スクリヴィア渡河に苦労しているというこの報告は、ブーデの報告と歩調が合っている。一方、サヴァリーはスクリヴィア渡河について「ブーデ師団は(中略)リヴァルタに陣を敷くべくトルトナの上流で川を渡った」(Mémoires du Duc de Rovigo, Tome Premier."
http://books.google.com/books?id=HZIFAAAAQAAJ" p264)としか述べていない。さらにサヴァリーは14日夜明け前にノヴィへの前進を命じられたブーデ師団が「すぐに武器を取り、リヴァルタの陣地を出発しノヴィへ行軍した」(p266)と書いている。夜明け後もまだ大半がリヴァルタに到着すらしていなかったというダルトンやブーデの報告とは、明らかに矛盾しているのだ。
ドゼーが何らかの主導権を発揮したという話にしたい歴史家が、サヴァリーの回想録に飛びつく気持ちは分かる。でも上に述べた通り、サヴァリーの話は正直信頼度が低すぎる。一次史料のソースがあるという点で「ドゼーは砲声に向かって進んだ」説よりマシだが、説得力に欠ける点は同じだ。
もう一つ興味深い話として、ケレルマンが紹介している「ボナパルトがドゼーに戻るよう記した命令の文章」についても話をしておこう。彼の本のp175-176に載っているのだが、面白いのはその脚注だ。ケレルマンは目撃者の証言を集めた人物として「ファヴェルジュ将軍」の名を、そして参考文献としてHistoire des guerres européennesという本の名を上げている。問題は、この本がgoogle bookなどで探しても一向に見つからない点にある。
題名で探しても、ファヴェルジュと名前で探しても出てこない。ケレルマン本の巻末にはそのHistoire des guerres européennesからの抜粋なるものが採録されているので、その中から固有名詞を含む文章を抜き出して(例えばdesaix arriva et arrêta)google bookで検索しても、引っかかるのはケレルマン本ばかり。これはどう考えたらいいのだろうか。
google bookは各地の大学図書館などにある本をスキャンしている。となるとケレルマンが紹介している本は大学図書館にも入らないほどマニアックな本(例えば部数の極めて少ない自費出版とか)だったのかもしれない。もっとヤバい考えとしては「そんな本は実在せず、ケレルマンが自説のためにでっち上げた本」と解釈することもできるかもしれない。多分ないけど。
いずれにせよ、ケレルマンの紹介する「ボナパルトの命令文」なるものはあまり信用しない方が安全だろう。de Cugnacは命令文について「その信憑性については議論があるものの、命令の趣旨という点では充分にありそうな内容だ」(Campagne de l'Armée de Réserve en 1800, Deuxième partie"
http://www.simmonsgames.com/research/authors/Cugnac/ArmeeReserve/V2C8French.html" p395)としているが、ここは慎重に対応した方がいい。それにこの時点で出てくる命令の内容が「急いで戻ってこい」であることは、別に見なくても想像がつく。ワーテルロー戦役におけるグルーシーと帝国司令部とのやり取りなどと比べれば、あまり議論の意味がないであろう問題だ。
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