「砲声への行軍」神話

 承前。今回は最初に結論を書く。マレンゴ会戦でドゼーが自らの判断で砲声に向かって行軍したというのは、史実ではない。実際のドゼーはボナパルトの命令に反して自らの主導権で動こうとはしなかった。マレンゴの砲声は聞こえていたかもしれないが、彼は司令部の命令に従いその砲声から遠ざかるように行軍した。
 証拠は「ブーデ師団の行軍と作戦に関する報告」という文書だ。de Cugnacはこの文書について、日々記したものではなく、戦役終結の少し後に書かれたものだろうと想像している。中身は誠実に書かれており、その記録は正確なものと扱うべきだとも指摘している。何より、この文書はde Cugnacの本に載っているドゼーの行動に関連した史料としては最も古い。つまり最も頼りになる一次史料と見なせるのだ。
 ドゼーはブーデ師団と伴に行動していた。だからドゼーの行動はこの報告を見れば分かる。会戦前日からの記録を見てみよう(地図"http://www.simmonsgames.com/tools/mapviewer/Frames.html#http%3A%2F%2Fwww.simmonsgames.com%2Fresearch%2Fauthors%2FCugnac%2FArmeeReserve%2Fmaps%2FTheaterOperationsFrameFrench.html"参照)。
 
「24日[6月13日]、モンニエ将軍の師団と別れ、ドゼー将軍が一緒に残った我が師団は、リヴァルタへ向かいセラヴァレまで戦線を延ばすよう命じられた。ポンテ=クローネからスクリヴィア川沿いまで進むため、私はトルトナの左側面にある困難で丘がちな土地を、何よりも激しい雨のために厳しい通路となったところを通過することを余儀なくされた。増水したスクリヴィア川ももう一つの困難となった。夜になったため我々はカラビニエ1個中隊のみしか渡河させることができず、彼らの数人は流れにさらわれて武器を失いただの幸運によって助かった。夜間、渡河した兵はリヴァルタに陣を敷き、ドゼー将軍もそこへ行った。その間、川が渡渉できない場合でも早朝すぐにでもスクリヴィアを渡る手段を提供すべく対応を進めた」
Campagne de l'Armée de Réserve en 1800, Deuxième partie"http://www.simmonsgames.com/research/authors/Cugnac/ArmeeReserve/V2C7French.html" p352
 
「25日午前2時、ドゼー将軍は歩兵による強力な偵察をセラヴァレ方面に行うこと、そしてもし戦力が必要だと信じるなら旅団によってそれを支援するようにとの命令を私に転送してきた。私は[前日]夕方から師団幕僚所属の大尉(レリティエ)率いる第3連隊の騎兵30騎の分遣隊を送り出しており、ドゼー将軍にまずはこの分遣隊の報告を待つ必要があるとの意見を述べた。彼は私の意見に賛成し私に与えた命令を変更した。
 夜明け、水位は渡渉できるところまで下がらなかったが、夜間に分遣隊がトルトナから連れてきた船頭たちの助けを借りて渡し舟が作られた。兵たちは素早く渡河しリヴァルタに陣を敷いた。午前10時頃、水位が下がり、砲兵も浅瀬を渡ることができた。
 その間、ドゼー将軍は前日の行動に続いてどのような配置をするべきかを司令部に問い合わせていた。中間地点にあり、そこからなら多大な時間は要するが確かにアレッサンドリアにも、敵がその方面への退却を試みた場合にはジェノヴァへの出口にも向かうことができるポッツォロ=フォルミガーロへ向かうようにとの命令を、彼は(幸いにも極めて遅くなってから)受けた。
 私の師団がリヴァルタから1マイルしか移動していないところに、第一執政によって送り出された司令官[ベルティエ]の副官が大慌てで駆けつけ、サン=ジュリアーノへ行軍しそこから両軍が夜明け以来戦闘を続けているマレンゴへ向かえとの命令を私にもたらした」
"http://www.simmonsgames.com/research/authors/Cugnac/ArmeeReserve/V2C8French.html" p393-395
 
 以上を読めば充分だ。何があったかは分かる。というかこれくらいしか頼れる史料がないのだからここに書いてあることが最も史実に近いと見るしかない。ドゼーは自分の判断で砲声へ向かって前進していない。彼は司令部からの命令通り、戦場から遠ざかる「ポッツォロ=フォルミガーロ」へ向けて行軍を始めていた。1マイルほど移動したところで「駆けつけ」た副官の命令を受け、初めてサン=ジュリアーノへと方角を転じたのだ。
 ではなぜ「ドゼーが砲声へ向かって行軍した」というフィクションが広まったのか。2段階の要因がある。1段階目はサヴァリーの回想録、2段階目はティエールの本がそれぞれ原因。まずはサヴァリーの回想録だが、13日夜までにリヴァルタに到着していたドゼーに対し、ボナパルトは「ブーデ師団と伴に夜明け前にノヴィへ前進するよう」(Mémoires du Duc de Rovigo, Tome Premier."http://books.google.com/books?id=HZIFAAAAQAAJ" p266)命じた。だが夜明けと伴に右翼側遠方から砲声が聞こえてきた。「ドゼーはこの音に驚き、師団の行軍を止め、私[サヴァリー]に全速で先行してノヴィを偵察するよう命じた」(p267)。漫画と同様、ドゼーは砲声に向かって進みはしなかったものの、命令通りに前進するのはやめたことになっている。
 サヴァリーは2時間ほどで戻ってきて、ノヴィに敵の姿がないことを伝えた。その後、彼はボナパルトに「ドゼー将軍が移動を中断し、新たな命令を待っている」(p267)ことを知らせるべく急いだ。途中、彼は副官ブリュイエールと遭遇した。ブリュイエールはマレンゴの戦場へ向かうようにとのドゼー宛命令を運んでいるところであり、サヴァリーからドゼーの居場所を聞いてそちらへ向かった。かくしてドゼーは司令部からの命令を受け取り、戦場への移動を始めた。
 このサヴァリーの話は、例えばJames R. Arnoldの"Marengo and Hohenlinden"などでも採用されている。だが、ブーデの話とは違っている部分が多く、額面通りには受け取れない。まず最初の前進命令を受けた時間だが、ブーデが日中となっているのに対し、サヴァリーは夜明け前。ドゼーとは逆に北方へ向かうよう命じられたラポワプの手元に命令が届いた時間が午前10時("http://www.simmonsgames.com/research/authors/Cugnac/ArmeeReserve/V2C8French.html" p364)であることを踏まえるなら、サヴァリーの話は時間的に早すぎる。
 早すぎるといえば会戦が始まった時間も早すぎ。マレンゴ会戦に関する各種報告"http://www.simmonsgames.com/research/authors/Cugnac/ArmeeReserve/V2C8French.html"では戦闘開始時間を8時または9時と書いているものが大半だ。サヴァリーの言う夜明けよりはずっと後である。偵察や伝令でサヴァリーしか活躍していないのも、この話全体の信頼度を落とす要因。そして何よりサヴァリーの本が会戦から30年近く後に出版されているという事実が大きい。彼の本とブーデの記録との間に矛盾があるなら、ブーデの方を採用するのが妥当である。
 
 それでもサヴァリーに基づく話を書くのはまだ許容できる範囲だろう。回想録とはいえ、一次史料に違いはないからだ(今月号のナポレオン漫画もセーフである)。問題は単に「行軍を中断した」にとどまらず、サヴァリーすら書いていない「ドゼーが砲声へ向かって進んだ」という話を書いている連中。de CugnacはÉtudes historiques sur le Général Desaix"http://books.google.com/books?id=X-Q5AAAAcAAJ"やLa Battaglia di Marengo"http://books.google.com/books?id=AavQcQAACAAJ"などの事例を紹介しているが、おそらく最初にそういう話を書いたのはティエールである。
 ティエールの話は、最初はサヴァリーと似ている。「マレンゴの平野で最初に砲撃が放たれたるや、ドゼーはその場で足を止めた」(Histoire du consulat et de l'empire, Tome Premier"http://books.google.com/books?id=vM5xeOML8B8C" p443)。それからサヴァリーをノヴィへ送り出し、南方に敵がいるかどうかを確認させる部分までは回想録と同じだ。おそらくサヴァリーの本自体を参考にして書いているのだろう。
 ところがサヴァリーが戻ってくるや、ティエールは「自らの[オーストリア軍主力がマレンゴにいるという]推測が正しいと確信したドゼーは、それ以上遅れることなくマレンゴへ向けて進軍した」(p443)と断言してしまう。一体何が論拠になっているのか、脚注などがないので不明。とにかく自身の判断で行軍したドゼー縦隊の先頭は、午後3時にはサン=ジュリアーノに到着。逆境にあった戦況をひっくり返すことになる。以上がティエール本の内容だ。
 
 ブーデ師団の報告は間違いなく一次史料だ。サヴァリーの回想録も、信頼度はずっと劣るものの当事者が書いたことは確か。だが、ティエールの本は違う。これは二次史料に過ぎない。それが史実であるという具体的な論拠がない限り、最も信頼されない話のはずだ。
 にもかかわらずティエールの書いた論拠不明の話が一般に広まったのは、彼の著作というか彼自身が有名だったからだろう。ブーデの報告はde Cugnacのような歴史家くらいしか知らなかった。サヴァリーの回想録はもう少し有名だが、それでも19世紀の著名な政治家兼歴史家として名を馳せたティエールに比べれば圧倒的に小者でしかない。発言内容より発言者の肩書きの方が信頼度を測る手段として重視されるのは、別に当時だけの話ではなく現代日本でも広く見られる。同じ現象がティエール本でも発生しており、挙句に1911年版Encyclopaedia Britannnicaにもこの「神話」が採用された"http://en.wikisource.org/wiki/1911_Encyclop%C3%A6dia_Britannica/Desaix_de_Veygoux,_Louis_Charles_Antoine"ほどだ。
 実は、ティエールが最初にこの本を出版した時には批判もかなりあった。だが、時間の経過を生き延びたのは、ティエールの裏付けがない話の方だった。つまり史実よりティエールのフィクションの方がよくできたミームだったのだ。最近になって出版されたこの本"http://www.amazon.co.jp/dp/4120041905/"にも、ティエールのミームはしっかり残っている。
 
 次回はティエール本が出版された直後に見られた批判や、その他落穂拾いを。
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