橋の破壊は命じられたのか

 ナポレオン漫画最新号ではいよいよマレンゴの戦い開始。作者のblog"http://mekauma.blog89.fc2.com/blog-entry-567.html"によれば今月はマレンゴと川中島を同時に書いているそうで、もう完全に戦記漫画家に決定だなこりゃ。SFホラー漫画家だと主張しても、今月号でホラーっぽいのはメラスの顔くらいしかないんだから説得力はない。
 
 さて史実との比較だが、今回はむしろ史実に関する論争の紹介がメーンになりそうだ。それも2つも。一方は「ほぼ史実は確定しているのに史実でない神話の方が人口に膾炙している話」、もう一方は「私個人の妄想込みの話」を予定している。その前に小ネタを処理しておこう。
 「褒められたい…です」については以前に書いた話"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/43301005.html"を作者が上手く加工したものなんだろう。ナポレオン曰く「彼[ドゼー]は高貴な野心と真の栄光のためにのみ生きていた」「ドゼーは栄光そのものを目的として愛していた」の部分が「キャー、ドゼー将軍すてきぃ」になった訳で、そう大した違いはない…と思う。
 前回も出てきた「惚れ惚れするいい顔」の兵士はおそらくコワニェ"http://cahiersduvaldebargis.free.fr/Jean-Roch%20Coignet.htm"がモデルだろう。彼自身の回想録によれば、コワニェはモンテベロの戦いにおいて単独で砲兵5人を倒し大砲1門を奪ったことになっている"http://napoleonic-literature.com/Book_13/Notebook_2.htm"。漫画より倒した数が多いが、まあ兵士の回想録なんてそんなもの。コワニェによれば、後からやって来たベルティエが彼の功績についてメモを取って記録したんだそうだ。
 ボナパルトがランヌに向かって「公報には俺が[モンテベロの戦いの]指揮をとったと載せたい」と話す部分があるが、これはフィクション。でも実際に公報(Campagne de l’Armée de Réserve en 1800, Deuxième Partie"http://www.simmonsgames.com/research/authors/Cugnac/ArmeeReserve/V2C6French.html" p259-260)を見るとランヌの名前も載っていないことが分かる。出てくるのはヴィクトール、シャンバラック、ワトランの3人。それなのにランヌがモンテベロ公になってしまったんだから、そりゃヴィクトールが怒るのも当然か。
 ベルティエが「前方アレッサンドリアが騒がしい」との報告を無視する場面もおそらくフィクション。6月14日朝の時点でシャンポー准将が記した報告には「夜間の偵察では何も目新しいことは起きなかった」("http://www.simmonsgames.com/research/authors/Cugnac/ArmeeReserve/V2C8French.html" p364)と書かれており、実際にオーストリア軍が動き出すまでフランス軍がその動向に気づいていなかった様子が窺える。
 
 そして今回の主要テーマ「ボルミダ川に架かる橋の破壊」だ。ボナパルトによる破壊命令が実行されず、オーストリア軍の逆襲を許したとされている。漫画ではヒゲを生やした気の弱そうな士官による中途半端な連絡が問題であったかのように描かれているが、史実では一体誰の責任だったのだろうか。
 実はよく分からない。戦報でも「ガルダンヌと兵士達は命令を貫徹せず」「ヴィクトールは厳しく監督することなく」「ローリストンは(中略)命令が遂行できなかった旨を報告したが(中略)ナポレオンは、他の事に気をとられていたか、重要ではないと判断してか、そのまま就寝してしまった」など、複数の名前が出てくる。
 なぜそうなるかというと各種回想録がそれぞれ違う責任者の名前を挙げているためだ。まずナポレオンがセント=ヘレナで口述したところによれば「[ヴィクトールの]騎兵が日暮れ時にボルミダに到着した。彼らはそこに橋はなくアレッサンドリアには単なる守備隊のみが存在すると伝えてきた」(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Trentième."http://books.google.com/books?id=CvZBAAAAcAAJ" p384)とある。ヴィクトール自身ではないが、彼の部隊が失敗したことが原因の一部であるかのように読める。
 マルモンが批判しているのはガルダンヌ。オーストリア軍の攻撃を受けたボナパルトが「ガルダンヌ将軍から、ボルミダに到着し橋を壊したとの連絡があったのに」と驚いていたのを見て、マルモンは「ガルダンヌ将軍は間違った報告をしていた」(Mémoires du maréchal Duc de Raguse, Tome Deuxième"http://books.google.com/books?id=lbuprDbizD8C" p128)と指摘。橋頭堡を確保するようガルダンヌに忠告したのに彼は従わなかったと述べている。
 ローリストンとボナパルトの連絡不足が原因だ、と言っているのはサヴァリー。橋の破壊が完了するまで見張っておけと命じられたローリストンだが、破壊はできなかった。ローリストンがそれを伝えた時「疲れきっていた第一執政は、彼の副官が持ち帰った情報を聞いていなかったかまたは誤解した」(Mémoires du Duc de Rovigo, Tome Premier."http://books.google.com/books?id=HZIFAAAAQAAJ" p265)。ナポレオンは後にこの件で、ローリストンが誤った安心感をもたらしたと非難したが、ローリストンはむしろ命令実行が不可能なことを急ぎ伝えようとしたのだと主張したんだそうだ。
 そしてブーリエンヌ。彼によればボナパルトは13日「夕、ある幕僚士官に対し、オーストリア軍がボルミダを渡る橋を持っているかどうかを確認するよう命じた。橋はないとの報告が随分遅い時間に届いた。この情報はボナパルトを安心させ、彼は非常に満足して就寝した」(Mémoires de M. de Bourrienne, Tome Quatrième."http://books.google.com/books?id=m5Mn2N1qpvQC" p120)。にもかかわらず、翌朝オーストリア軍が攻めてきたため、ボナパルトは激怒してこの幕僚士官を臆病者と呼んだそうだ。ブーリエンヌはこの士官の名に言及していないが、サヴァリーの証言に従うならこの士官はローリストンだろう。
 
 以上が関連史料だが、ここで注意してもらいたいのはそのいずれもが回想録であること。史料としては信頼性が必ずしも高くない。もっと信頼性の高い、古い時期に書かれた史料はないのだろうか。
 de Cugnacもそう思ったのだろう。彼は公文書館の史料をひっくり返し、会戦5日後の6月19日にミラノで書かれた文章を発見した。書き手も宛先も分からないこの手紙だが、その中に13日の出来事として以下のようなことが書かれている。
 
「将軍は私に、何が起きているかを見るため前進し、その内容を報告するよう命じました。私はヴィクトール師団の右翼と伴に前進し、マレンゴが奪取された時に散兵と伴にその村に入りました。
 夜になり砲撃は止みました。私はガロフォリの将軍と合流するべく戻りました。いくつかの戦闘の舞台となったサン=ジュリアーノの平野は完全に破壊されました」
"http://www.simmonsgames.com/research/authors/Cugnac/ArmeeReserve/V2C7French.html" p346
 
 de Cugnacはサヴァリーの回想録と照らし合わせたうえで、この手紙を書いたのがローリストンである可能性を指摘している。だが、もしこれがローリストンの書いたものだとしたら「橋」の文字がどこにもないのが妙だ。この手紙の主が命じられたのは「何が起きているかを見るため」マレンゴ村へ前進することだけであり、橋の有無やその破壊の確認などは彼の任務に含まれていない。おかしい、「橋の破壊」命令はどこへ行った?
 そう思って調べるとさらにおかしな事実が判明する。実はボナパルトが橋の破壊を命じたという文章が最初に登場するのは会戦から3年後の1803年にまとめられた公式戦記の中なのだ。そこには「前衛部隊はボルミダ対岸へ敵陣地を押し返し、そして可能なら橋を焼却せよ」(Relation de la Bataille de Marengo"http://www.simmonsgames.com/research/authors/Berthier/RelationMarengo/TextFrench.html" p33)という文章が出てくる。会戦数年後にまとめられた本より古い文献には見当たらない「橋の破壊」命令。もしかしたら、この本で紹介されるより前には「橋の破壊」命令は存在していなかったのではないか。
 マレンゴ会戦の前半、オーストリア軍の猛攻を受けたのはボナパルトの判断ミスが原因だ。だが後に彼が終身執政、さらには皇帝とどんどん偉くなる過程で、彼の無謬化を進める動きが強まった。マレンゴ会戦における序盤の不手際もボナパルトのせいにできなくなっていったのだ。そこで作られたのが「橋の破壊を命じたのにそれが実行されなかった」説。これなら悪いのはボナパルトでなく、命令を実行しなかった部下ということになる。
 だが実際にはそんな命令は出されなかったし、従って「命令を実行しなかった部下」も存在しなかった。だから回想録ごとに戦犯の名前が違っているのではないか。存在しない犯人を無理やりでっち上げようとするから、前衛師団長のガルダンヌ、その上司であるヴィクトール、あるいはたまたまこの日に前方の偵察を命じられたローリストンなど、それぞれ異なる人物が犯人呼ばわりされているのである。
 以上は基本、私の妄想だ。証拠の不在は不在の証明にはならない。たまたま史料が見つからなかったとか残らなかっただけで、実際に橋の破壊命令が出された可能性も充分ある。でも、会戦直後に書かれた一連の報告書の中に一ヶ所も橋の破壊に関する言及がないのは、やはりおかしい。ボナパルトがボルミダ河畔の偵察を命じた可能性は充分あるが、橋の破壊までは明確に命じなかった、というのが私の推測である。
 
 長くなったので以下次回。
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