モンテベロへ

 のんびりしてたらまたナポレオン漫画の新しい号が出てしまった。とりあえず先月号についてフォローしておこう。いつものようにde CugnacのCampagne de l'Armée de Réserve en 1800"http://www.simmonsgames.com/research/authors/Cugnac/ArmeeReserve/TOCFrench.html"が基本文献となる。
 
 何回かに1回はある「ランヌ主役の話」だったが、de Cugnacの本を見るとこの時期のソースとしてランヌ自身が書いた文章がほとんど紹介されていないのが目立つ。モンテベロ前後における彼の報告のうちこの本に掲載されているのは、6月6日にサン=キプリアーノでポーを強行渡河した際の戦いについて記した手紙(Deuxième Partie"http://www.simmonsgames.com/research/authors/Cugnac/ArmeeReserve/V2C5French.html" p178-179)の次はマレンゴの戦い後(6月15日)に書かれたもの("http://www.simmonsgames.com/research/authors/Cugnac/ArmeeReserve/V2C8French.html" p389-391)まで、ランヌの書いた文章は見当たらないのだ。彼の上官や部下が書いたものがあるのに、後のモンテベロ公が書いたモンテベロの戦いに関する報告がないとはこれいかに。
 もしかしたらそもそも報告を書かなかったのかもしれない。たとえば全部副官の口頭伝達だけで済ませたとか。でもまあそんなことは普通あり得ないだろう。というかそれをやったら仕事をサボったと言われても仕方ない。あるいは史料はあったが中身がつまらないのでde Cugnacが採録しなかったという可能性もある。しかしながらいくらつまらん報告でも、戦闘における指揮官の報告を無視するのはこれまたあまりなさそうな話だ。となると、報告は書かれたけど保管ミスなどで後の時代まで残らなかったとか、あるいは残っているんだけどde Cugnacが探し損ねたとか、そんなあたりが実態かもしれない。
 
 漫画では戦闘前にまず「モロー将軍のライン軍からも予備軍が来た」と書いている。当初から予備軍左翼はモロー率いるライン方面軍から引き抜くことは決まっていたが、引き抜かれた部隊の指揮官は当初予定していたルクルブではなく(後に元帥となった人物の中でもマイナーな)モンスイ。彼の率いた部隊の内訳はPremière Partie"http://www.simmonsgames.com/research/authors/Cugnac/ArmeeReserve/V1C9French.htmlのp431に載っている通り歩兵9350人、騎兵2160人と、これまた当初予定とは随分異なる少ない数にとどまっていた。
 6月1日付でモンスイが第一執政に書いた報告(Deuxième Partie"http://www.simmonsgames.com/research/authors/Cugnac/ArmeeReserve/V2C4French.html" p153)によれば、彼の部隊の一部は5月28-29日にサン=ゴッタルド峠を越えてイタリアへ入った。実際にミラノに到着し始めたのは5日ごろ以降で、モンスイ自身も9日にはミラノからボナパルト宛の手紙を書いている("http://www.simmonsgames.com/research/authors/Cugnac/ArmeeReserve/V2C4French.html" p162-163)。この日はまさにモンテベロの戦い当日。漫画の中にモンスイの姿は見当たらないが、モンテベロの戦いが中心である以上それは当然と見るべきだろう。
 
 ランヌが「ピアチェンツァでミュラ軍の援護をしろ」という命令を受け取るシーンがあるが、これはおそらく史実ではなくフィクション。ミュラがピアチェンツァ攻撃を担ったのは事実で、6月5日に行われた攻撃はブーデ師団の報告にも記載されている("http://www.simmonsgames.com/research/authors/Cugnac/ArmeeReserve/V2C5French.html" p165-168)。だが、4日付でベルティエがランヌ宛に記した命令書には「ミュラ将軍にピアチェンツァでポー河を渡るよう命じました」とは書いているものの、ランヌにミュラを支援せよとは言っていない("http://www.simmonsgames.com/research/authors/Cugnac/ArmeeReserve/V2C3French.html" p112-113)。
 マセナの降伏に関し、ランヌ宛に直接伝えたことを示す史料もde Cugnacの本には載っていない。ただしマセナの降伏自体は8日付の予備軍公報("http://www.simmonsgames.com/research/authors/Cugnac/ArmeeReserve/V2C6French.html" p244)に書かれており、ランヌがモンテベロの戦い以前にその事実を知っていたとしても何の不思議もない。
 
 そしてモンテベロの戦いだが、調べていると英語wikipedia"http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Montebello_(1800) "に変な話が載っていた。ボナパルトは「もしヴォゲーラとストラデッラ間に兵がいたなら心配せず攻撃せよ。彼らは1万人未満しかいないはずだ」と書いた覚書をランヌに送った、というのがwikipediaの主張なんだが、論拠としてあげているJames R. Arnoldの"Marengo and Hohenlinden"の脚注(p133)を読むと、実はこれボナパルトがベルティエ宛に書いた8日付の命令書の文章であることが分かる。Arnoldの引用元はナポレオン書簡集("http://books.google.com/books?id=bIO1O1GpUFsC" p351)だ。
 おそらくwikipediaの編集に当たった者がArnold本の脚注を見落としたのだろう。確かにArnoldの本文だけ見ると誤解しそうな文章ではあるが、そんなに手間のかかる話ではないのだから脚注まで見ておくべきだった。wikipediaに載っている歴史関連の文章はあまり額面通りに信用しない方がいいというのは前から思っていることだが、その感想を裏付ける事例がまた一つ増えたことになる。
 
 長くなったので以下次回。
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