前回書いた話について、弓矢や投石には訓練が必要ではないかとの指摘を受けた。弓矢についてはおそらくそうだろう。また投石でも、例えばアナバシスに描かれているロードス島人のようにペルシャ兵を撃退できるだけの能力を持った連中や、クレしん映画「戦国大合戦」で描かれたような投石器を使う統制の取れた攻撃を実行できるようになるには、一定の訓練は必要だろう。
一方、柵などの物陰に隠れて石礫を投げる分にはさほどの訓練はいらないんじゃないか、少なくとも竹槍で騎兵を支えるよりは楽にできるんじゃないかというのが、前回の話を思いついた背景。もちろん単なる妄想に過ぎないのだが、ついでなので歴史的なソースについても調べてみよう。日本では石礫はどのように使われていたのか。
そもそも人類は直立歩行を始めたころからモノを投げていたというのはクロスビーが「飛び道具の人類史」"
http://www.amazon.co.jp/dp/4314010045"で主張しており、おそらく日本列島でもホモ・サピエンスが定住し始めたころから手ごろな飛び道具である石礫は投げられていただろう。ただ史料の中で実際に礫を投げた事例として私が見つけられたもっとも古いものは、1300年ごろ成立と見られる「吾妻鏡」"
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1110306"だった。
同書の文永3年4月21日(上記の本ではp232-233)には「甲乙人等数十人。群衆于比企谷山之麓。自未尅。至酉尅。向飛礫。爾後帯武具。起闘諍」という文言が見える。最初は礫を投げあい、その後で武装をして争ったという話だ。鎌倉期の歴史について江戸時代にまとめられた「北条九代記」"
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/880706"の中には「甲乙人等印地停止」(p322-323)としてこの話が紹介されている。
ここに書かれた礫の投げあいは「甲乙人等数十人」によるものとなっている。特に名を知られた人々によるものではないのだろう。実際、石を投げるだけなら別に御家人や公卿である必要はない。無名の、そこらにいる連中が石投げ合戦に参加したわけだ。おまけに吾妻鏡には「京都飛礫猶以為狼藉之基」との文言もあり、礫の投げあいが行われていたのは鎌倉だけではないことも示唆している。つまりあちこちで石投げ合戦は行われていたってことだろう。
礫を投げ合うことを「印地」とか「印地打ち」と呼ぶっていう話は色々なところに書かれている"
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B0%E5%9C%B0"。でも、少なくとも吾妻鏡には「印地」という文言は出てこない。一方、古事類苑の遊戯部"
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/897893"に書かれている印地(p1182-1187)の項目を見ると、室町時代に書かれた「運歩色葉集」や「饅頭屋本節用集」の中に印地という言葉が紹介されていることが分かる。もしかしたら「印地」という言葉が成立したのは室町時代かもしれない。
その後、印地は子供の遊びと化したようだ。そのあたりは古事類苑に大量に紹介されているのでいちいち書くことはしないが、端午の節句に子供たちが石を投げ合う遊戯をしていたことが分かる。どこまで信じていいのか不明だが、雨窓閑話や甲陽軍鑑には織田信長や徳川家康の幼い頃における印地がらみの挿話も載っている。逆にいえば当時の日本人は子供の自分から石投げに手馴れていた、とも解釈できる。
とまあ目に付いた話をチェックしてみたが、中世以降において石投げ自体はそれほど珍しい行為ではなかったように思える。七人の侍が舞台としている戦国末期には子供時代に印地を経験した連中も珍しくなかっただろうし、その経験を生かして戦闘時に礫を投げた連中がいても不思議はない。
もっともそんなことを言いはじめたら「そもそも戦国時代の村人は基本的に武装していた筈なのに、なぜ映画では野武士相手にろくに抵抗できなかったのか」というツッコミも可能なんだよな。まあ、この手の話はあまり厳密に考えすぎない方がいいんだろう。どうせ妄想なんだし。
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