フランス革命期には由緒正しくない連中が時代の流れに乗り自らの実力を生かしてのし上がった。そのせいか名前だけ見ても、本名ではなくよく分からない胡散臭い名前で活躍した者が何人かいた。
例えば元帥になったヴィクトールだが、そもそも生まれた時にはそんな名前ではなかったようだ。こちら"
http://books.google.com/books?id=nHBMAAAAYAAJ"にはヴィクトールの「本当の名前はクロード・ペラン」(p181)とあるし、こちら"
http://books.google.com/books?id=IgBuwN-_xqIC"でも「クロード・ペラン(ヴィクトール及びヴィクトール=ペランと呼ばれていた)」(p34)とある。彼がなぜぺランではなくヴィクトールと呼ばれるようになったかを窺わせるような一次史料は見たことがないが、ヴィクトールが本来の名前でないことは事実のようだ。
サン=シール元帥も同じ。彼の生まれた時点での名前はローラン・グーヴィオンだった。軍に入った彼は同姓の同僚との混乱を避けるため苗字に「母親の苗字サン=シールを付け加えた」(Napoleon's Marshals"
http://books.google.com/books?id=KwvXjfC9LF0C" p193)と書いている本もあるが、実際には彼の母の名はアンヌ=マリー・メルシエ(L'Intermédiaire des chercheurs et curieux"
http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k73426x/" p395)なのでそれはあり得ない。
Chandler編のNapoleon's Marshalsに書かれているPhilipp Coates-Wrightの"The Owl"によればサン=シールというのは彼の母親が夫の下を離れた後に名乗った名前らしい(p120)。カトリックが力を持っていた旧体制下の時期だったので正式な離婚にはならなかったようだが(妻の不在を理由に離婚が認められたのは革命後の1795年)、事実上の離婚と見ていいだろう。なぜ離婚後に彼女が旧姓のメルシエではなくサン=シールと名乗ったのか、その辺は分からない。ローランがその名を自分の苗字にくっつけた理由も不明だ。
「ドローム県ヴァランスで1762年8月12日に生まれたジャン=エティエンヌ・シャンピオネは、ヴァランスの選挙人会議長だったグラン氏の息子だった。洗礼簿に記されたシャンピオネという名は彼の父親の所領名だったが、彼の母親であるマドレーヌ・コリュウまたはコリウはシャンピオネが生まれたずっと後になるまでグラン氏と正式に結婚しなかった」
p25-26
父親が誰かははっきりしているし、名前の由来も明確だ。Eltingが紹介している話とは全然違う。そしてフランスの郷土史家らしい人が書いているものを("
http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k54322960/"収録)見る限り、この伝記に書かれていることの方がEltingの話よりは間違いなく史実に近いようだ。
実際に教区に残されている洗礼簿には父親の名前などは載っていない(p315)。だが1786年にエティエンヌ・グランがシャンピオネの母親であるマドレーヌ・コリヨン宛てに記した手紙の中には「私たちの子供」や「あなたの息子シャンピオネ」という言葉が堂々と書かれている(p317)し、1781年には「私エティエンヌ・グランは(中略)エティエンヌの息子であるエティエンヌ・シャンピオネについて以下の点を保証する(後略)」(p402)という保証書も記している。
シャンピオネという名前の由来についても父親がシャンピオネの地に所領を持っていたことが理由だと思われる(p311-132)ことが指摘されており、息子が自分で苗字を選んだわけではないことが分かる。Eltingがどこからこんな話を引っ張り出したのかは興味があるが、その指摘については信用しない方がよさそうだ。
それにしてもこのエティエンヌ・グラン、かなりヤリチンだったようだ。母親の侍女だったと思われるマドレーヌに生ませた子供はどうやら1人ではなかった("
http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k5432123r/" p119)うえに、彼女の姉だったマリーにまで子供を生ませていた模様(p118)。この子供はすぐに死んでしまったが、マリーはその父親がエティエンヌ・グランだと明言していた。ちなみに姉のマリーは子供を生んだ時に20歳になったばかり、妹のマドレーヌが最初の子を生んだのはまだ19歳である。何という羨ま…けしからん話だろうか。
それだけではない。シャンピオネが生まれたほんの一ヶ月ちょっと後、ルイーズ・ルイリエという女性が男の子を生んだのだが、それの父親もまたエティエンヌ・グランだったのである(p225)。こちらもまた当時19歳。記録が残されているだけでこんなにあるんだから、記録に残っていない分まで含めれば彼が若い女を手当たり次第に食っていた可能性は高い。今だったら爆発しろと言われても仕方ない状態だ。
後に書かれた手紙の文面を見る限り、エティエンヌ・グランが息子シャンピオネとその母親マドレーヌに対して愛情を抱いていたのは間違いなさそうだが、それにしても若い頃が無軌道すぎるのも確か。単なる若気の至りで年をとってからは落ち着いたのか、それとも女に対してはいつまでもどこまでも軽々しく愛を語れる男だったのか、そのあたりはよく分からない。
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