またもシュテンゲル

 シュテンゲルの戦死については以前こちら"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/29335511.html"とこちら"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/49689292.html"で言及したことがある。その時点では一次史料が見当たらず、はっきりしたことは分からないという結論だった。だが、実は一次史料と思えるものはあった。それも私が既に紹介済みの史料の中に。
 それを裏付けるのが、これまた既に紹介済みなんだがAnnales de la Société des Lettres, Sciences et Arts des Alpes-Maritimes, Tome XV"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k56843940/"。実はこの本の前半に掲載されているのはKrebsの書いているCampagnes dans les Alpesの第4章及び第5章であり、そしてこのKrebsの本はナポレオンのイタリア遠征初期段階について記している様々な歴史書がよく参考文献に挙げている本なのだ。それだけ信頼されている文献だと言える。
 で、同書p167の脚注によれば、戦役に関連する史料の中に「ブレイユと陸軍省の公文書」なるものがあり、その中に「1796年にはピエモンテ軍に属しており、その後フランスの軍務に移った幕僚少佐マルティネルの指図で書かれた覚書」も含まれているんだそうだ。問題はこのマルティネルという人物である。実は私、以前にこの人物を「19世紀末から20世紀初頭」の人物として紹介してしまったことがある"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/29335511.html"。20世紀初頭にFabryがまとめて出版した本の中のある文章を執筆していたので、てっきりFabryと同時代人だと思い込んでしまったのだ。
 だが、マルティネルがFabryより100年ほど前、18世紀末から19世紀初頭の人物だとすれば話は全然変わる。特に彼がピエモンテ軍に所属していたという事実は大きい。彼のまとめた覚書は、自身が見たものとは限らないものの、ピエモンテ軍の一次史料を使ったものだとは看做せるだろう。すると、これまで二次史料と思っていたMémoires sur la Campagne de 1796 en Italie"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k107409r"におけるマルティネルの文章が、実はほぼ一次史料扱いできるようになるではないか。
 前のエントリーでも紹介しているが、同書p111でマルティネルは「[ピエモンテ]国王竜騎兵連隊は20人の捕虜を奪い多くを殺した。シュテンゲル将軍は致命傷を負い捕虜になった。彼はカラッソーネへ連れて行かれ、2時間後に到着して彼を捕らえた者たちから治療を受けた。彼は負傷した5日後に死去した」と書いている。これはピエモンテ側の一次史料を使って書かれた文章である可能性がかなり高い。つまり、シュテンゲルは捕虜となり、カラッソーネへ連れて行かれたと見るべきだろう。
 ただ、Krebsはマルティネルを参照しながらもシュテンゲルが捕虜になってカラッソーネへ連れていかれたという説は採っていない。前にも述べた"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/49689292.html"通り「エレロを渡って敵を退却に追い込んだ第20竜騎兵連隊がすぐ彼を回収した」(Annales de la Société des Lettres, Sciences et Arts des Alpes-Maritimes, Tome XV p226)と書いている。これはおそらくフランス軍側の史料に基づいた解釈だろう。その史料とはHistorique du 5e Régiment de Dragons"http://books.google.com/books?id=52kaAAAAYAAJ"だ。
 シュテンゲルの下で戦っていた第5竜騎兵連隊の連隊史が書かれたこの本によれば、シュテンゲルは「白兵戦の中で致命傷を負った」(p139)とされているものの、捕虜になったとはどこにも書かれていない。そこで捕虜になったと明白に書かれているのはローヴァンだけである。
 FabryのまとめたRapports Historiques des Régiments de l'Armée d'Italie"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k107309f"でも内容は同じで、第5竜騎兵連隊の報告には「勇敢なシュテンゲル将軍は危険なほどの負傷をし、3日後に死んだ」(p472-473)としか書かれていない。捕虜になった人物としてはローヴァンと、シュテンゲルの副官だったポンティの名は挙がっているものの、シュテンゲルについてはそうしたことは書かれていない。
 
 さて、どちらが正しいのだろうか。あくまで私の感覚に過ぎないが、どちらかというとピエモンテ側の主張(つまりマルティネルの覚書)が史実のように思える。というのも、第5竜騎兵連隊の記述を見れば分かるのだが、シュテンゲルが捕虜になったとは一言も書いていないが「捕虜にならなかった」とも書いていないのだ。連隊史ってのは時に自分たちに都合の悪い話については「何も書かない」という方法でやり過ごすことがある。将軍が捕虜にされたという格好悪い話をスルーすることで誤魔化した、という可能性があるんじゃなかろうか。
 もっとも単に負傷した士官についていちいち「彼は捕虜にはならなかった」と書くなんていう面倒なことはしなかっただけ、と解釈することも可能。だからフランス側の史料を見て「捕虜になっていない」と判断するのも、決しておかしいとは思わない。ただ、ピエモンテ側の史料と並べて見れば捕虜になったと判断するのが最も矛盾の少ない解釈である。これが史実だと断言するほどの自信はないけど。
 Krebsが書いている「戦闘でシュテンゲルは腕をピストルで撃たれた」という話は、Revue d'Histoire Rédigée à l'État-major de l'Armée"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k121750t/"のp451によればArchives administrations de la Guerreの史料に基づく話のようなので、おそらく事実なんだろう。撃たれた腕を切断した結果、死んでしまったらしい。ランヌも死ぬ前に脚を切断している。四肢の切断手術がかなり命がけだったことが分かる。
 シュテンゲルを死に追いやったピエモンテ軍の国王竜騎兵連隊は勲章をもらったようだ。こちら"http://www.vivant.it/pagine/re.pdf"のpdfファイルに書かれていることが正しいなら、戦闘の翌月、5月9日に王様からお褒めの言葉もいただいている(p5-6)。あっと言う間に休戦へ追い込まれたピエモンテ軍だったが、その中でも奮闘した部隊があったことを示す一例だ。
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