ジェノヴァのマセナ

 アメフト世界選手権やNFLのロックアウト解除などアメフト関連に気をとられていたら、ナポレオン漫画の新しい号がもう出ていた。でもまだ先月号を取り上げてないのでそちらを簡単に。
 
 今回登場するオーストリアの将軍はメラス"http://www.napoleon-online.de/AU_Generale/html/melas.html"とオット"http://www.napoleon-online.de/AU_Generale/html/ott.html"。漫画は前者の肖像画については間違いなく参考にしているようだが、後者はあまり気にかけずに書いたようだ。あのサリーちゃんのパパみたいな髪型をどこから思いついたのか、知りたいところ。
 問題なのは、今回の話がジェノヴァに立てこもったイタリア方面軍の話題が中心だという点だ。つまり予備軍の話ではないのである。Campagne de l'Armée de Réserve"http://www.simmonsgames.com/research/authors/Cugnac/ArmeeReserve/TOCFrench.html"が史料としてほとんど使えない。こりゃ困ったなと思いながら少し探してみたところ、Quellen zur Geschichte der Kriege von 1799 und 1800."http://www.archive.org/details/quellenzurgesch00huefgoog"という史料を見つけてしまった。
 1800年戦役におけるオーストリア側の一次史料をまとめたこんなマニアックな本が出ていたんだから19世紀末から20世紀初頭ってのはナポレオニックマニアにとっては黄金時代だな。ちなみになぜか最初の方のページはすっ飛ばされているが、肝心な当事者たちの書簡集は掲載されているので問題ない。これを参照しながら実際にジェノヴァを囲んでいたオーストリア側の動向を調べてみると、漫画の表現が実際にはフィクションであることが分かる。
 漫画ではメラスが「マッセナは餓死寸前のはず。降伏させろ」と言っている。一方、戦報では「彼[メラス]は決戦が近いと考えて、オットにもはや封鎖を解いて合流するように命じた」と書いている。どちらが史実に近いかというと当然ではあるが戦報の方。メラスは5月31日付でトリノから記したオット宛の手紙で「リヴィエラ全土から引き上げジェノヴァの包囲を解かねばならない」(p256)と書いている。
 この手紙がジェノヴァ近くのセストリに司令部を置いていたオットの下に届いたのは6月1日の遅い時間になってからのことだ。そしてその数時間前、オットはマセナから手紙を受け取っていた。
 
「拝啓、私は参謀長のアンドリュー将軍に、一昨日受け取った日付のない手紙であなた方が口火を切った件[降伏]について、あなた方が任命する人物との交渉に入るよう命じました。会合を開く中立の場所について指定してはいただけませんか?」
p263
 
 際どいタイミングだったが、マセナから交渉に応じるとの連絡が来た時間の方が、メラスによるジェノヴァ解囲命令よりも早かった。そこでオットは1日午後10時、もう少しでジェノヴァを奪えそうだから包囲を続けたいとの要望をメラスに送る(p264)。そして2日からは実際に交渉が始まった(p265)。メラスの下にこの情報が届いたのも2日のことで、メラスはジェノヴァ奪取の可能性が出てきたことを素直に喜んでいる(p266)。
 マセナの側から見れば、あと1日でも粘っていれば状況が大きく変化していた可能性があったということだろう。その意味ではこの戦いは彼にとって不運だったとも言える。もっともマセナがオーストリア側の事情をここまで正確に把握できていたとは思えず、そうだとすればどこかのタイミングで諦めて降伏を巡る交渉を始めるのは止むを得ない判断だろう。後から見れば「もう少し頑張っていれば」と言えるが、当時そんなことが言えたのは神しかいないだろう。
 
 フランス側の事情はマルボの回想録Mémoires du Général Bon de Marbot"http://www.archive.org/details/memoiresdugenera01marb"に基づいているところが多いようだ。例えば「駐屯部隊一万六千名のうち一万が死んだ。住人は毎日7、8百人が路上に死体となって転がっている」という部分は同書p96-97に書かれていることと基本同じ。とはいえ全部そのまま引用しているわけではない。
 犬猫が食い尽くされ、ねずみが高値で売れるという話も書かれてはいる(p98)が、「5月27日」という日付はない。出撃したフランス軍の後に住民が続き、植物を刈り取って食用にしているという話もあるが、やはり日付はなし。住民の蜂起を恐れたマセナが4人以上の集会に発砲するよう命じた話も記されている(p99)が、子供を失った母親がどうこうという逸話は見当たらない。
 最も違うのはマルボの父親に関する部分だろう。漫画では息子が父親の心臓を抉り出すというシュールなシーンが描かれていたが、マルボによれば実際の彼は「その嘆き方は胸が張り裂けるようで、簡単には心を動かされないマセナ司令官ですら断固たる態度を保つよう努力しなければならなかった」(p102)ほどだったそうだ。彼がいつまでたっても父親の柩を離れようとしないため、マセナが口実を使ってマルボを呼び出し、その隙に父親の遺体を急いで埋葬したという(p103)。
 
 ジェノヴァ降伏がボナパルトに知られたのは、実際に降伏が行われた4日後の6月8日。メラスが5日付で本国宛に発した手紙がフランス軍の手に落ち、そこに書かれた文章を見て初めて事態が判明したようだ(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Sixième."http://books.google.com/books?id=bIO1O1GpUFsC" p348)。漫画ではボナパルトがマセナの降伏に怒っている様子が描かれているが、実際に直後に書かれた彼の手紙を見る限り彼の反応はもっと落ち着いたものだったようだ。
 同日ベルティエに書いた手紙でも「彼[マセナ]の軍は捕虜にはならず、スーシェ将軍と合流すべく行軍している」と述べているし、同日付の予備軍公報(p353)でも事実を淡々と書いているだけ。陸軍大臣カルノー宛の9日付の手紙でも「マセナ将軍は完全な食糧の欠乏に強いられ、降伏を申し出た」(p353)と、彼の降伏が止むを得ないものであったことを匂わせている。もちろんこれらは体面を取り繕ったものに過ぎずはらわたは煮えくり返っていたのかもしれないが、少なくとも自制心を働かせた対応を見せているのは間違いない。
 マセナの粘り強い交渉に対しオーストリアの士官が「ライオンとキツネを足したような奴だ…」と言っているが、Histoire Militaire de Masséna: Le siège de Gênes"http://www.archive.org/details/histoiremilitai00gachgoog"に書かれていることが確かならこの台詞を言ったのはサン=ジュリアンらしい(p245)。降伏条約の末尾に署名するよう求められた時、マセナはリグリア共和国の許可を得てからでないとできないと言ったのだそうだ。単に勇敢なだけでなく狡猾と言ってもいいくらい慎重、という評価だろうか。
 
 6月4日、ジェノヴァを落としたオットはメラスに対し、守備隊の撤収が進めば「フォーゲルザンク中将の師団をボッケッタを経てアレッサンドリアへ行軍させます」(Quellen zur Geschichte der Kriege von 1799 und 1800. p274)と伝えている。ジェノヴァの戦いは終わり、次の戦闘が彼らを待っていた。マセナは表舞台から引っ込み、再び第一執政に脚光が当たる。
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