私よりずっと年上の世代は、ジャズという言葉を「海外のはやり歌」と認識していた。流行している曲はとりあえずジャズと呼ぶ、ってのが彼らの認識だった。だが、ある時期から(ジャズの歴史には詳しくないのでいつ頃か正確にはいえないが)ジャズは流行歌とは違う概念になっていった。私の世代に至るとジャズは難解でスノッブなジャンルになり果てており、同時代の流行歌とは全く違う存在と化していた。もっとはっきり言うなら、ジャズは過去の音楽だった。
同じことがSFに起きているように思えてならない。私の若いころ、SFは大衆文化であり同時代のカルチャーだった。もちろん高尚で難解でスノッブなSFも存在したが、一方には下品で単純でチープなSFも広く存在し、あちこちで取り上げられていた。レムの小説、キューブリックの映画のような「芸術」っぽい作品がある一方、当時の大学の先輩が言っていた「マシンと綺麗なねーちゃんの組み合わせ」という身も蓋もない作品も大手を振ってまかり通っていた。猥雑で、品がなく、でも活気のあったジャンル。それがSFだった。
社会人になり、しばらくSFとは縁遠い生活をしていた。今回、初音ミク特集を機にSFマガジンを(物凄く久しぶりに)読んでみた。まず冒頭に出てきた神林長平の作品に愕然とした。この人ってこんなスノッブな、言葉遊びみたいな話を書く人だったのか。
実際には私が読んだことのある神林作品は「戦闘妖精・雪風」のみで、神林作品について語れるほどの積み重ねは全くない。だが、雪風は私にとっては分かり易い話だった。かっちょいい戦闘機がとにかくかっこよく空戦する話。もちろん背景には色々な設定もあったんだろうが、そんなのは単なる言い訳であり、要するに派手な戦闘シーンが描かれていることが重要な作品だった。著者自身の考えはともかく、私がこの作品を読んだ最大の理由はそこにあったし、おそらく同じ考えでこの本を読んだ人は他にも大勢いただろう。アニメも見た。
闘争本能という名の本能を満足させるための作品。そういうものがSFの名の下に売られており、読者に受け入れられていたのが当時の姿だ。でも今回読んだこの小説は何だ。爽快感もかっこよさも何もない。正直私は元ネタになっている伊藤計劃の作品を読んでいないため、この作品について正面からの評価はできない。でも初音ミク特集ということで普段買わない人がSFマガジンを買ってこの作品を読むとどう思うかは想像できる。「SFって随分スノッブで難しいお話なんだね」
一方、ツイッターなどではこの作品に対して少数ながら絶賛の声が出ている。おそらくそういう人たちこそが普段からのSFマガジン読者であり、私がSFから離れていた時期にもSFを支えてきた層なのだろう。もともとSFマガジンはハードSF中心の小難しい作品が多く掲載されていたという印象はあったが、その傾向は最近になって一段と強まっていたようだ。高尚で難解でスノッブな話を好む読者たち。それにあわせた作品掲載。その結果、SFというジャンル自体がスノッブなものになっているのではないだろうか。
そう考えたときに初めて納得できるのが、「アイの物語」に対するこちらの書評"
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51262311.html"だ。正直、最初に読んだ時は「この人は何をそんなに怒っているんだ」としか思わなかったが、今ではその感情がよく分かる。確かにSFは「こんな難解な話でもオレはわかるんだ合戦」になっているようだ。そうでなければ神林作品が特集を差し置いて冒頭に掲載され、それに一部ではあるが熱狂的な反応が出てくる事態が説明できない。その結果、普段SFを読まない人間はこれを見て辟易しながらこのジャンルから去っていく。そして「SFは死んだ」といわれるようになる。
今回の初音ミク特集で短編を書いている山本弘のblog発言"
http://hirorin.otaden.jp/e188072.html"も、そう考えると切実さを増す。「なんか『流行りものに便乗するのはよろしくない』みたいなストイックなことを言う人がいるみたいなんですが、僕はSF界はもっとあざとく売ってもいいと思うんですよね。むしろ、SFファンだからこそ、こういう新しい概念に注目すべきなんじゃないのかなと」との台詞には、かつてSFが大衆文化だった時代を知っている人間としては同意せざるを得ない。
スノッブになるってことは、かつてSFジャンルに含まれていた大衆文化的要素をSFが排除することも意味する。特にそう思わされたのが、こちらの掲示板まとめサイト"
http://2chbooknews.blog114.fc2.com/blog-entry-1117.html"だ。「結局のところ、初音ミクはSFなのか?」
正直、こうした問題が提起される時点で私の認識と現状が明らかにずれている。私にとってはバーチャル・アイドルと呼ばれている時点でそれはもう間違いなくSFだ。しかし、世の中にはそう思わない人間がいるのである。この掲示板ではSFの定義が唱えられ、それに初音ミクが当てはまるかどうかで議論が沸きあがっている。議論するまでもないと思っていた私は完全に置いてけぼりだ。ここに書き込んでいる「SF好き」な人々は、SFと初音ミクのような大衆文化をいかに差別化するかに全力を投じているように見える。
差別化は自らを特権的立場に立たせる(正確には立っているように幻惑させる)効果を持っている。一方で幅広い層を含む大衆文化を切り捨てた結果として、そこに含まれていた様々な可能性も失う。その結果として特権的になった(と思い込んだ)ジャンルからは活気が失われていく。周囲からは「○○は死んだ」という声が出てくる。そうしたジャンルの行き着く先はどこだろうか。新陳代謝がなくなって消えていくか、あるいは江戸時代には大衆に支持され人気を博した歌舞伎や人形浄瑠璃のように少数のファン(及び公的支援)によって支えられる「伝統芸能」と化していくのか。
このまま行くと、かつては大衆文化だったSFも伝統芸能化していくような気もする。ジャズがたどったのと同じ道を歩み、少数の熱心なファンと多数の無関心な大衆に挟まれ、少しずつ活気を失い、固定化し、やがては前例をひたすら忠実に踏襲することに価値や美意識を見出すようになる。完成されたスタイルは美しいかもしれないが、変化することが当たり前のダーウィン的世界ではスタイルそのものが緩慢な死へ向かうことも意味している。「かつての」SFファンとしては悲しい話だが、これも時代の流れとして受け入れるしかないんだろう。
もちろん、そう簡単には死なない可能性もある。たとえ中身がスノッブであってもSFマガジンはまだ「初音ミク特集」を組むだけの対応は見せた。特集として掲載された短編はいずれもさしてスノッブではなく、充分に大衆受けするストーリーになっていた。何より初音ミクは発売の翌年には星雲賞に選ばれている。星雲賞を選ぶ年次日本SF大会参加者たちは、まだ初音ミクのような大衆文化をSFと見なすだけの柔軟性は持ち合わせている訳だ。
そして、たとえSFというジャンルが「死んだ」としても、かつてSFというジャンルから生まれた様々なものは今でも大衆文化の中に息づいており、時に大きな花を咲かせている。初音ミクはまさにその典型例だろう。そして、そうした大衆文化の中に残っているSF的要素こそ、「かつての」SFファンだった私が好きだったものだ。そう考えればSFというジャンルが「死んだ」ところで私にとっては大したダメージはない。SFは大衆文化の中に当たり前に存在するものになることで、その名前は消え去ったとしても実態はずっと生き延び続けるだろう。少なくとも私の寿命が尽きるまで、SF的要素が死に絶える心配はしなくてよさそうだ。
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