後知恵

 オラニエ公関連で活用したPierre de Witのサイト"http://www.waterloo-campaign.nl/"には、ワーテルロー戦役における連合軍の連携に関する分析"http://www.waterloo-campaign.nl/june16/evaluatie.pdf"も掲載されている。そこで重要なキーワードになっているのがhindsight、即ち「後知恵」だ。連合軍の連携について議論をしている後世の歴史家の多くが、実は「後知恵」で語っているのではないか、というのが彼の指摘である。面白い指摘なので紹介しておこう。
 
 de Witによれば戦役前の計画において、連合軍は基本的に相互に連携することと、原則として防御戦略を採ることで合意していたという。その際の集結地点としては(1)英連合軍が攻撃を受けた場合には英連合軍はアンギャン―ブレーヌ=ル=コント―ハレの三角形内に集結し、ブリュッヒャーはフルーリュスとジャンブルー間に集まる(2)プロイセン軍が(シャルルロワまたはナミュールから)攻撃された際にはプロイセン軍はフルーリュスの東方、ジャンブルーからアニュにかけての地域に集結し、ウェリントンはまずニヴェール周辺に集まる――ことが定められていた(p1)
 この指摘が正しいとしたら、事前計画の段階でウェリントンがキャトル=ブラを集結地点として考えていた可能性はないことになる。de Witに言わせれば、キャトル=ブラの交差点が戦争前から集結地点になっていたとの考えは「後知恵」から生まれたものなのだそうだ(p1)。おそらく戦役前に書かれた文章の中には明確にキャトル=ブラが集結地点だと示すものがないのだろう。
 もう一つの問題は、リニーのプロイセン軍が攻撃を受けることが16日の昼近くになるまでブリュッヒャーにもウェリントンにも分かっていなかった点にある(p2)。そして、リニーのプロイセン軍が攻撃を受けることが分かった時点で、初めてキャトル=ブラの重要性が浮かび上がってきた、というのが彼の指摘だ。シャルルロワ―ブリュッセル街道とナミュール―ニヴェール街道が交差するこの地点は、連合軍両軍をつなぐ結節点になるし、逆にフランス軍がそこを押さえれば両軍を分断できる。
 そこで初めてキャトル=ブラに予め兵を配置しておいたオランダ軍首脳部の判断が正しくなった。でもこれは結果論に過ぎない。もともとオランダ軍首脳部が敵の姿を見たキャトル=ブラに負けず劣らずニヴェールを重視していたことは既に指摘済み"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/52071176.html"。彼らはどちらが本当に重要なのか迷いながらも、実際に敵兵力が姿を見せていたキャトル=ブラに1個師団を集める決断をしたというのが実情なのだろう。そこがどれほど重要な拠点になるかを事前に見抜いていたと断言するのは難しいそうだ。
 こうした後知恵に基づいて議論をしている歴史家は多い、とde Witは指摘している。例えばvon Pflugk Harttung(p5)がそうだし、Hofschröerが英語で紹介したドイツの歴史家たちの指摘も同じだろう。実はナポレオン自身ですら、リニーとキャトル=ブラの会戦を両軍が事前に予想していたかのように言及しているという(p22)。
 
 後世から歴史を見る場合、後知恵の視点が入り込んでしまうのはどうしても避けられないだろう。後知恵で見ることで分かることもおそらくある。だが一方で、当事者がなぜそのような決断をしたのかを知ろうと思うのなら、できるだけ後知恵は排除した方がいい。神の視点と人間の視点は異なるのだから。
 でも、歴史叙述(特に一般向けの本)では後知恵で安易に結論を導き出しているものが多いのもまた事実。しかも後知恵で歴史上の人物の判断を批判したり、愚か者扱いしたりするケースも珍しくない。そりゃ神の視点で見れば人間のやることなど愚かなことばかりだろうが、それで本当に歴史が分かるのだろうか。自戒の意味も含めて注意すべき点だろう。
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