参謀長、師団長、旅団長

 オラニエ公の評価について、特にキャトル=ブラに兵力を集結させた点に関し、前回述べたことを踏まえて考えてみる。果たしてナポレオンが言うようにオラニエ公は「一握りの兵で敢えてキャトル=ブラに布陣」するという「英雄的な決断」を下し、それによって勝利に貢献したのだろうか。結論から言うと、この決断に当たってオラニエ公が果たした役割はほとんどなかった。
 
 実はオラニエ公は、6月15日のフランス軍による攻撃に最も早く気づいた連合軍首脳の一人だった。Pierre de Witによれば彼は同日朝、前線の巡回に出発し、午前7時半ごろにサン=シンフォリアンに到着したところでプロイセン軍が攻撃を受けているとの情報を得ていたという("http://www.waterloo-campaign.nl/june15/nedbelgen.pdf" p1)。彼はいったん司令部のあるブレーヌ=ル=コントに10時半ごろ戻り、それからウェリントンと対応を協議するべく11時半ごろにブリュッセルへと出立した(p2)。そして、翌日まで戻らなかった。
 ナポレオンの攻勢に対してオランダ軍が具体的な対応を取り始めた15日午後には、オラニエ公は司令部を離れてしまっていたのだ。その間、オランダ軍の動きをコントロールしていたのは現場指揮官である師団長たちや、司令部に残った参謀長ら。オラニエ公はウェリントンと一緒に行動することになったため、「一握りの兵」をキャトル=ブラに集める作業にはほとんど関与しなかった。彼がやったのは16日午前3時過ぎに司令部に戻ってきたところで参謀長コンスタン=ルベックのそれまでの措置を事後承諾したことと、朝方キャトル=ブラに向かう途中でニヴェールにいた2個大隊にキャトル=ブラへ向かうよう命じたこと(しかもこの大隊の移動準備は既にコンスタンが終えていた)くらいだ。
 
 オラニエ公がほとんど何もしなかったのだとしたら、この時の主役は彼ではなく彼の部下たちだ。ではその中で最も重要な役目を果たしたのは誰だろうか。
 まず第2旅団のザクセン=ヴァイマール。彼は確かに上からの命令がない時点でジュナップにいた麾下の部隊をキャトル=ブラに向かわせた("http://www.waterloo-campaign.nl/june15/nedbelgen.pdf" p7)。だがこの時点で彼の麾下にあったのは同旅団5個大隊のうち2個のみ。彼が旅団の指揮権を引き継いだ時点では既にキャトル=ブラへの集結命令は出た後であり、その点で主導権を発揮したとはいえない。そもそもキャトル=ブラは予め同旅団の集結地に定められており("http://www.waterloo-campaign.nl/june15/obs.wellington.2.pdf" p5)、シャルルロワ方面で砲撃の音が聞こえていたことも踏まえるなら、彼はやるべきことをやったに過ぎないとも言える。
 現場にいた彼が上司をせっつくことで増援を引き出した可能性はあるだろうか。オランダ軍関係者の証言を集めたWaterloo Netherlands Correspondence (Volume One)"http://www.1815.ltd.uk/site/books/netherlands_vol1.php"に載っているザクセン=ヴァイマールの手紙(1841年に書かれたものなので信頼性は高くない)によれば、彼が上司のペルポンシェに求めたのは「歩兵用の弾薬箱1、2個と、そして可能なら左側面を偵察させるためいくつかの騎兵」(p80)だけ。ペルポンシェの参謀長だったヴァン=ザイレン=ヴァン=ナイエヴェルトが1815年10月に書いた報告書を見ても、増援はペルポンシェの方から言い出したように見える(p43)。
 15日に起きた戦闘では全てザクセン=ヴァイマールが指揮を執っており、彼がキャトル=ブラ防衛に一定の役割を果たしたのは事実だろう。でも、キャトル=ブラに兵力を集めるという点での貢献度はあまりないように見える。
 
 彼の上官だったペルポンシェはどうか。こちらはかなり主導権を発揮したと言えるだろう。麾下の2個旅団に対し上層部からの命令を待たずに集結を命じているし("http://www.waterloo-campaign.nl/june15/nedbelgen.pdf" p8)、キャトル=ブラの状況を聞いた午後9時の時点では独断で2個大隊を増援に送ることをザクセン=ヴァイマールに約束している(p9)。そしてニヴェールに部隊を集めよとの命令が来た後になって、実際にはニヴェールにいた第1旅団のうち2個大隊をキャトル=ブラに移動させている("http://www.waterloo-campaign.nl/june16/Iekorps.pdf" p3)。
 ペルポンシェが重要な役目を果たしたのは以上の経緯を見ても分かるのだが、問題は実際に彼が動かしたのが第1旅団5個大隊のうち2つだけにとどまったこと。キャトル=ブラに迫る危機を認識していた一方で、彼は「敵がバンシュを攻撃していないことが確認できるまで、そして第3師団がニヴェールの兵と交代するまで、この町の守備隊戦力を敢えて減らそうとはしなかった」(Waterloo Netherlands Correspondence, p43)。彼にとってはニヴェールも重要な場所だったわけで、Pierre de Witなどは「第1旅団をニヴェールにとどめ置き続けるほど、彼は用心深すぎた」("http://www.waterloo-campaign.nl/june16/obs.wellington.pdf" p13)とまで言っている。
 2個大隊の増援を約束(午後9時)してから、実際に増援と一緒に出発(午前2時)するまで5時間もの時間を要しているのを見ても、彼がニヴェールに一定のこだわりを持っていたことは否定できない。彼が出立を決断したのは、ウェリントンの命令が到着し第3師団もニヴェールへ来ることが分かってからであり、要するにニヴェールをがら空きにしないで済む見通しがついたからこそやっと第1旅団を動かす決断ができたのだ。ペルポンシェの行動は連合軍に大いに貢献したことは確かだが、彼とて未来を見通して速やかに決断を下した訳ではないことが分かる。
 
 そしてオラニエ公の参謀長だったコンスタン=ルベック。彼は午後10時15分にペルポンシェに対し、必要なら第1旅団でキャトル=ブラを支援すること、及び第3師団などの応援を求めることを伝えている("http://www.waterloo-campaign.nl/june15/nedbelgen.pdf" p10)。これまた上層部の命令なしに出されたものであり、彼もペルポンシェ同様に主導権を発揮したと言える。
 ちなみにこの際にコンスタンは伝令のスティルムに対し「ニヴェールを捨て第1旅団全てでキャトル=ブラへ行軍するようペルポンシェに命じることはできないが、もし彼が適当だと思うならいくつかの大隊で増援すべきである」と口頭で指示を伝えたとの話もある(La campagne de 1815 aux Pays-Bas"http://www.archive.org/details/lacampagnedeaux00basgoog" p409)。残念ながらソースが不明であり、Waterloo Netherlands Correspondenceに載っているコンスタン=ルベックやスティルムの証言(p8, 24)を見てもそうした内容のものは見当たらない。だが、たとえこれが事実でないとしても、文書の方の命令を見る限りコンスタンが主導権を発揮した点は否定できないだろう。
 コンスタンの行動で判断が難しいのは、16日午前0時半になってニヴェールへの集結命令をそのままペルポンシェへ伝えたところ。彼が参謀長、つまりスタッフであった事実を踏まえるなら、ラインの上から来た命令をそのまま下に流すのは何の問題もない、というかむしろやらない方がおかしい行為になるんだが、この命令が彼自身が直前に出した命令と矛盾しているところが問題となる。一体彼の本心はどこにあったのか。
 La campagne de 1815 aux Pays-Basのp438にはこの命令を伝える際にコンスタンが「キャトル=ブラを死守するべきだとの深い確信を抱いていることも伝えた」とあるのだが、これまたソースが不明だ。彼が本当にそうペルポンシェに伝えたのなら、ペルポンシェがウェリントンの命令を無視してキャトル=ブラへ増援を送る判断を下すうえでそれが支援材料になったとも考えられる。だが、ペルポンシェの参謀長であるヴァン=ザイレン=ヴァン=ナイエヴェルトはこの命令を受けた時にそうした「補足事項」があったとは言っていないし(Waterloo Netherlands Correspondence, p43)、コンスタンにいたっては「ペルポンシェ将軍に第3軍団の移動について知らせた」(p9)ことにしか言及していない。
 実際にはその後でニヴェールに残った第1旅団の3個大隊をキャトル=ブラへ動かすための手配をしているため、コンスタンが戦力のキャトル=ブラへの集中を重視していたのは間違いないだろう。しかし、彼がウェリントンの「命令に背い」てまでその態度を貫いたのかというと、正直そこまでは言い切れない。彼の行動はあくまで参謀長、つまりスタッフとしてできる範囲のことにとどまっており、明確にその権限を越えるようなことまではしていないのだ。正直言って、ウェリントンの命令を無視することで連合軍の勝利に貢献した度合いを測るのなら、彼よりもペルポンシェの方が大きいように思う。
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コメント

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dss*m00
先ほどこの記事に気づきました! 非常に興味深いです。一時期は勝手な推測で「ペルポンシェが命令したのかな?」と思い込んでいたこともあり、なんか嬉しい感じがしました(^_^;)

話は若干ずれますが、最近ずーっと気になっているのは「ウェリントンはブリュッヒャーに約束した事を守らなかった(……だとして)のに、ブリュッヒャーがワーテルローに駆けつけるとした約束をなぜ信じる事が出来たのか……?」という事だったりします。しかも最近どこかで、「ウェリントンはイギリス国内における反プロイセン派だった」という様な既述を読んだりして、ますます6月18日におけるウェリントンの心情が良く分からないのですが……。まあ、心情というのは「事実」とは違って推し量りにくいものなのでしょうけども。

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desaixjp
エントリーで紹介したde Witは、例えば16日午前に書かれたウェリントンのFrasnes Letterについて「これは彼の置かれた状況を説明するためのもので、何らかの約束をしていたのではない」と解釈しています("http://www.waterloo-campaign.nl/june16/evaluatie.pdf" p9-10)。そもそも約束していなかったのなら、約束を破ったことへの負い目など持ちようもないでしょう。そう考えると、de Witの指摘の方がHoefschröerの主張より辻褄が合うってことになりそうです。

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dss*m00
おおお……なるほどです。ますますこのde Wit氏?の記事が読みたくなりました。……もっとすらすら英語が読めたらなぁ……!!

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desaixjp
de Wit氏のサイトはワーテルロー戦役の史料集としても役立つ優れもののサイトです。ただ、一部のページ(18日のフランス軍司令部など)が公開されていないのが残念なところです。あと、ドイツ語あたりまではともかく、オランダ語はやはり詠むのは大変です。

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dss*m00
ドイツ語もオランダ語も読まれてるのですか! すごいです……。

自分的な優先順位としては今、16日までの動きに興味があるのですが、本で持ってるのはHofschr??er氏のものだけなので、そのde Wit氏のサイトや、以前教えていただいた1900年前後の本などが読めていければなぁ……と思っています。

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desaixjp
読めません。ただドイツ語やフランス語はネットにある自動翻訳サイトを使って英語に訳せば充分読める文章になります。ロシア語だって何とかなります。でもオランダ語はあまり上手く行かないみたいです。

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dss*m00
ああ~、なるほどです。そういえば私もそれをやろうと思っていた事がありました……。

そのやり方の存在を忘れていたので、覚えておこうと思います(^_^;)
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