前回の前ふりで述べた「オラニエ公の評価」について、今回はきちんと書いてみよう。まずは以下の文章を。
「一握りの兵で敢えてキャトル=ブラに布陣したオラニエ公の英雄的な決断がなければ、英国軍はその場で捕捉され、フランス軍はフリートラントのように勝利しただろう。オラニエ公はこの日、戦況を見抜く能力と戦争の才を持ち合わせていることを証明した。この戦役の栄誉は全て彼のものだ。彼がいなければ英国軍は会戦を行うことすらできずに破壊され、ブリュッヒャーはラインの背後に逃げ込むしかなかっただろう」
p184
オラニエ公見直しが進んでいる最近のワーテルロー本から抜き出したような文章だが、実はこの一文が載っている本が出版されたのは19世紀半ば。発言者は他ならぬナポレオンだ。少なくともこのRécits de la Captivité de l'Empereur Napoléon à Sainte-Hélène, Tome Second"
http://books.google.com/books?id=W7VqlUKMRhMC"の著者モントロンはそう主張している。オラニエ公を称賛するのはさして目新しくもない話のようだ。
ナポレオンも言っているが、オラニエ公(というか彼の率いたオランダ軍首脳部)称賛の論拠としてよく使われるのは、キャトル=ブラに兵を集めたこと。ウェリントンが気づかなかったこの交差点の戦略的重要性に気づき、そこに予め彼(彼ら)が兵力を集めたおかげで英連合軍とプロイセン軍の連絡が保たれ、リニーでのプロイセン軍の敗北が決定的なものにならずに済んだ、という理屈だ。
この理屈が間違いなく成立するかどうか、またその際にオランダ軍首脳部の誰が具体的にどの程度の貢献をしたのかを調べるには、キャトル=ブラの会戦前に何があったかをもっと詳しく調べる必要があるだろう。そこで参考になるのがPierre de Wit氏のこのサイト"
http://www.waterloo-campaign.nl/"。彼はいくつもの本にワーテルロー関連のデータを提供しているErwin Muilwijk氏"
http://home.tiscali.nl/erwinmuilwijk/index.htm"と一緒に、ワーテルロー戦役におけるオランダ軍関連の一次史料を詳細に調べている人物である。さっそく中身を見てみよう。
ウェリントンが麾下の部隊に最初の命令を下したのは15日の午後6時から7時の間だ。内容はこちら"
http://www.waterloo-campaign.nl/june15/brhfdkw.pdf"のp1-2に載っている。そこには「オラニエ公はニヴェールに低地諸国軍の第2及び第3師団を集めるよう要請された。もしその地が本日攻撃を受けていたなら、英国歩兵第3師団を集結し次第そこへ移動させるように」と書かれている。ペルポンシェの第2師団も集結地点はニヴェールが指定されている。
一方、より最前線に近い第1軍団司令部では、ウェリントンの命令よりも前に対応が始まっていた。オラニエ公がブリュッセルへ向かっていたため、代わりにブレーヌ=ル=コントの司令部に残っていた参謀長のコンスタン=ルベックが最初の命令を発したのは15日の午後3時。そこではペルポンシェに麾下の第2師団をニヴェール及びキャトル=ブラへ集めるよう命じている("
http://www.waterloo-campaign.nl/june15/nedbelgen.pdf" p5)。
キャトル=ブラに集まった第2旅団の動きは少々ややこしい。まずこの時点ではザクセン=ヴァイマールはまだ同旅団の長ではなかった。キャトル=ブラの西方オータン=ル=ヴァルに司令部を置いていたフォン=ゲデッケ大佐が指揮権を握っていたようだ。ザクセン=ヴァイマールは命令が来る前に自らの判断で麾下の2個大隊をキャトル=ブラに差し向け、その旨をフォン=ゲデッケに伝えた。最終的にこの情報がペルポンシェに伝わったのは午後4時45分ごろ。彼は状況を探るために部下のフォン=ガゲルン大尉を送り出すと同時に、師団にニヴェールとキャトル=ブラに集結せよとの命令を伝える(p7)。夕暮れにかけてキャトル=ブラ南方でフランス軍との小競り合いがあり、その時点でザクセン=ヴァイマールは同旅団の指揮を執るよう命令を受けた(p8)。
一方、ペルポンシェが第1旅団(バイラント)へ命令を下したのは午後5時にかけて(p8)。コンスタン=ルベックからの命令が到着したのもこの頃だが、集結命令自体は少なくともバイラント旅団についてはペルポンシェが自らの意思で既に出していた、というかペルポンシェはコンスタンからの命令について言及していないんだそうで、このあたりは事態はあやふやである。やがてキャトル=ブラに関する詳しい報告が届いたところで、同日夜9時以降にペルポンシェは夜の間にバイラント旅団の2個大隊を増援に送るとの約束をザクセン=ヴァイマールに伝えた(p9)。
午後10時ごろコンスタン=ルベックの下にキャトル=ブラの情勢を伝える報告が入る。彼は同15分にペルポンシェに対し、第2旅団(ザクセン=ヴァイマール)を第1旅団で支援すること、及び必要ならシャッセの第3師団とコレールの騎兵に支援を受けることが重要だとの命令を出した(p10)。彼はその後でオラニエ公にこの命令のことを伝えているので(p9)、命令自体はコンスタンが自らの判断で出したことに間違いないだろう。
ところがその報告を出した直後の10時半にウェリントンからの命令が届く。そこには「オラニエ公はニヴェールにネーデルランド第2及び第3師団を集めるよう要請を受けた。兵は午前1時に移動する」(p10)と書かれている。もし厳密にこの命令に従うのなら、キャトル=ブラに集まったザクセン=ヴァイマールの旅団もニヴェールに移動しなければならなくなる。コンスタンはどうしたのか。彼は日付が変わった16日午前0時半に、以下のような命令をペルポンシェに出している。
「貴下にド=スティルム伯を送った[午後10時15分の命令のこと]後に、ブリュッセルのオラニエ公殿下から貴下の師団をニヴェールに集めるよう伝えよとの命令を受けた。シャッセ将軍の師団もニヴェールに向かって貴下と合流し貴下を支援するようにとの命令を受けた。ド=コレール将軍はエーヌ=サン=ピエールの背後にある丘を確保するよう命じられた」
p11
長くなったので続きは次回。
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