ドゼーの帰還

 今月のナポレオン漫画はほぼ全編「マジック」である。つまりフィクション。史実とは関係ないが、フィクションとして見ればこれまで張ってきた伏線を上手く回収しているという点でよくできている。トゥーロン戦の時にビクトルが議員に化けてネルソンと出会ったこと、そのビクトルがドゥノンから絵をもらっていたこと。この二つを使い、さらに史実でドゥノンがエマ・ハミルトンの絵を描いていたことも絡め、結果としてダヴーが英軍に捕まったためにマレンゴに間に合わなかったかのように描いている。いやお見事。
 
 でも今回の話は史実ではない。いやまあドゥノンがエマの絵を描いていたのは史実だけど("http://www.art-of-the-day.info/a05939-new-vivant-denon-room-exhibition-voyages-en-italies-2.html"参照)、それ以外はほぼフィクションと見た方がいい。
 まず最大の「マジック」は、ドゼーとダヴーが帰還途中で別れていること。実際は二人は一緒に(船は別々だったようだが)帰還を試み、一緒に英海軍に拘束され、一緒に釈放されて一緒にフランスにたどり着き、一緒に検疫を受けていた。
 彼らと伴に行動したMiotがMémoires pour servir à l'histoire des Expéditions en Égypte et en Syrie"http://books.google.com/books?id=gO4OAAAAYAAJ"で、エジプト出発からフランスにたどり着くまでの経緯を詳細に記している。それによると帰還に際して使われたのはラグーサの商船サンタ=マリア=デレ=グラツィエと小型船エトワールで、前者にはドゼーとサヴァリー、ラップ、後者にはダヴーが乗船したという(p316-317)。船は強風でロードス島に流されたり、シチリア島に上陸したりしながら何とかフランスの沿岸までたどり着いたところで、英国のフリゲート艦に発見された。
 漫画では軍人である身分を隠して乗船していたように描いているが、実際にはドゼーもダヴーもシドニー=スミスが発行したパスポートを所有しており、彼らの身分とフランスへの帰還を保証するための英国士官も一緒に乗船していた。だが英国艦はその話を聞かず、「キース提督[英海軍地中海方面司令官]はエジプトから来たフランス船全てを阻止するよう命じている」(p329)と言って彼らをイタリアのリヴォルノ(ピサに近い港町)まで連れて行った。なお、この捕縛にネルソンは何も関与していない。
 リヴォルノに着いたドゼーは、キースに対してフランスへの帰還を認めるよう要求する。キースは本国に問い合わせるとしたものの、返答が来るまではドゼーらの身柄を押さえておく考えを示し、彼らにリヴォルノで検疫を受けるよう命じた。ダヴーはボートでコルシカまで逃げることを提案するが、ボートのサイズを考えると副官全員を連れて逃げ出すのは難しかったためこの計画は見送られたそうだ(p331-332)。
 結局ドゼーは英本国からパスポートを出すことを認める連絡が到着するまでリヴォルノに留め置かれた。彼らが1ヶ月ほどリヴォルノで拘束されていたと述べているのはサヴァリーも同じで(Mémoires du Duc de Rovigo, Tome Premier."http://books.google.com/books?id=HZIFAAAAQAAJ" p222)、つまりドゼーが英海軍に拘束されたという当事者の証言は複数存在しているのだ。おまけに1800年7月2日付のBulletin Helvétique"http://books.google.com/books?id=MI8BAAAAYAAJ"というほぼ同時代の史料にも、ドゼーがリヴォルノへ連れて行かれたことが書かれている(p13-14)。英海軍に捕まったのはダヴーだけではないのだ。
 解放された一行がようやくトゥーロンに到着したのは1800年4月24日(Mémoires pour servir à l'histoire des Expéditions en Égypte et en Syrie, p347)。彼らはさらにそれから再び検疫を受け、5月19日にやっと検疫を終えて自由の身になった。ドゼーがマレンゴで戦死したのは、それから1ヶ月も経たない時期であった。
 
 もちろん、ドゼーと一緒に行動していたダヴーもこの時に帰国した。ボナパルトが5月14日付の手紙で「トゥーロンに到着したドゼー将軍とダヴー将軍の手紙を何通か受け取った」(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Sixième."http://books.google.com/books?id=F2guAAAAMAAJ" p274)と書いていることからもそれは分かる。ではなぜドゼーがマレンゴ会戦に参加したのに、ダヴーは戦場にいなかったのだろうか。
 理由は簡単で、要するにダヴーはボナパルトに呼ばれなかったのだ。この時期のボナパルトはアルプス越えを控えてローザンヌにいたが、ダヴーに対しては「検疫が終わったらパリへ向かえ」というそっけない命令を下している(p274)。一方、ドゼーに対する同日付の手紙はダヴー宛のものよりもはるかに長く、現状に関する詳細な説明を含んでいるうえに、「私と合流するべく、私のいるところに可能な限り早く来るように」(p273)と命じているのだ。
 この手紙は両者に対するボナパルトの態度の違いを示していて面白い。第一執政はドゼーに対しては「我が親愛なるドゼー」mon cher Desaixと呼びかけているのに対し、ダヴーに対する呼びかけは単なる「市民」citoyenとなっている。他の執政に対する手紙の中ではドゼーとダヴーを「2人の優秀な将軍」deux excellents générauxと言っているのでダヴーの能力自体は認めていたようだが、両者の関係はこの時点ではかなりビジネスライクなものであったことは窺える。
 
 もう一つ、ドゼーが「公正なスルタン」と呼ばれていたという話について。正義のスルタンといわれることもあるが、要するにフランス語のSultan-justeである。google bookで調べた限りでは、この称号が最初に使われたのは共和国暦8年(1799年9月23日から1800年9月22日まで)に出版されたCampagne de Bonaparte en Italie"http://books.google.com/books?id=91c9AAAAcAAJ"である。マレンゴ戦役について書いたものなので、出版は1800年夏から秋の時期だろう。
 同書p119には「あらゆる場所で彼は共和国軍に勝利をもたらした。それだけにとどまらず、彼は自らが征服した土地の住民の心を掴んだ。彼の親しみやすい性格は彼に正義のスルタンという誇らしい称号をもたらした」との文章がある。同書の英語版"http://books.google.com/books?id=JTJRAAAAYAAJ"を見るとドゼーに関する伝記部分の著者はFoudrasとなっているが、どのような人物であるかは不明。google bookでは同名の著者が書いている他の本を探すとペティヨンに関するものも見つかるので、おそらく軍人とかではなく執筆業に携わっていた人物なのだろう。
 問題は、ドゼーがSultan-justeと呼ばれていたと主張しているのがフランス側の文献に集中していること。一方、アル=ジャバルティの本(Napoleon in Egypt"http://books.google.com/books?id=EqnYe9dm_IoC"やAl-Jabarti's History of Egypt"http://books.google.com/books?id=OUzaasBv8SIC")やニコラス・テュルクの本(Histoire de l'Expédition des Français en Égypte par Nakoula El-Turk"http://books.google.com/books?id=i0E-AAAAcAAJ")といった同時代のエジプト側史料には、ドゼーの称号として正義のスルタンというものは出てこない。
 エジプト側の史料に「正義のスルタン」が存在すれば問題ないんだが、それがないとなるとFoudrasの証言を素直に信じていいのかどうか怪しくなる。もちろんそれだけでこの称号を否定するのも難しいのだが、積極的に史実であると主張したいのならやはりエジプト側の史料による裏付けが必要だろう。誰かそういうことをやっていないものか。
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