ある軍主計官の記録

「私は彼の肩書きは憶えていないが、ボナパルトが彼を非常に気に入っていたこと、及び彼がやさしい性格で普通に社交的であったことは知っていた」
Mémoires de Madame la Duchesse d'Abrantés, Tome Second."http://books.google.com/books?id=ylNEAAAAIAAJ" p26-27
 
 ジュノー夫人が記した回想録の中に上記のような文章がある。彼女の言う「ボナパルトのお気に入り」は、しかしながらほとんど名を知られていない人物である。彼の名はフェリックス=ショーヴェ。ボナパルトと同じ1769年生まれで、南仏のメゼルという小さな町の出身だ(La jeunesse de Napoléon, Toulon"http://www.archive.org/details/lajeunessedenapo03chuquoft" p313)。
 父親が立法議会の議員であった彼は、軍の主計官として最初はアルプス方面軍の下で働いた。1793年7月には派遣議員のデュボワ=クランセとゴーティエが彼をカルトーの軍に所属させ、同年9月にはトゥーロン攻撃軍の主計総監になっている。当時のショーヴェはまだたった23歳。だがその有能さは派遣議員たちの目にとまっていた。後にエジプト遠征に参加することになる医者のデジュネットはショーヴェを以下のように描写している。
 
「ショーヴェは(中略)気迫と行動力に満ち、夜も昼も眠ることなく、1ダースの事務員を疲労困憊させるような人物だった。1791年憲法の支持者かつ擁護者でありながら、ショーヴェは自らの主義主張も自らの外見や礼儀の上品さも忘れ、普段から酷い服装をし、街中でも職場でも靴やブーツよりもスリッパをしばしば履き、ループあるいは南仏ではファキーヌ[ろくでなしという意味もあるらしい]と呼ばれる外套を普段はまとっていた。頭には時にはハンカチを、しかし普段は酷い帽子を被っていた」
Souvenirs de la Fin du XVIIIe Siècle et du Commencement du XIXe, Tome Deuxième"http://books.google.com/books?id=FQgbAAAAYAAJ" p376-377
 
 外見を気にしないところはドゼーなどと似ているが、ボナパルトは別に気にしなかったのだろう。彼が気に入ったのはおそらくショーヴェがボナパルト同様のワーカホリックだったこと、そして何より優秀だったことが理由だろう。その有能さは広く知られており、例えばマセナはショーヴェのおかげでイタリア方面軍右翼の行動は失敗することがなかったとまで言っているそうだ(La jeunesse de Napoléon, Toulon"http://www.archive.org/details/lajeunessedenapo03chuquoft" p313)。
 
 そのショーヴェは1796年、ボナパルトに先んじてイタリア方面軍に赴任することが決まった。同方面軍司令官のシェレール宛にパリから出された2月17日付の手紙には「主計官ショーヴェがあなたの軍の運営管理を担うべくそちらへ向かっています。彼がいれば命令された軍への物資供給準備が新たに活性化することでしょう」(Campagne de l'Armée d'Italie, Tome Troisième"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k1072696/" p166)と書かれている。
 この情報を知った派遣議員ゴーティエは2月22日にマセナに早速この情報を伝えている(p165)。ショーヴェの前任者であるスーシーは「後任であるショーヴェの到着を心待ちにしています(p249)と述べ、ヴィニョールもマセナに対し「新たな主計総監がショーヴェであることはご存知でしょう。彼の到着は日々待ち望まれています」(p236)と書いている。イタリア方面軍関係者にとってショーヴェがよく知られた人物であり、なおかつ歓迎されていた様子が窺える反応だ。ただ、実際の到着には時間がかかったようで、3月11日にシェレールがサリセッティに書いた手紙では「エベールもショーヴェもまだ到着していません」(p292)との文章がある。
 ようやくショーヴェがイタリア方面軍司令部のあるニースに来たのはおそらく3月16日。18日付でゴーティエがマセナに記した手紙の中に「スーシーは明日ジェノヴァに出立します。ショーヴェが仕事を始めて2日が経ちました」(p378)とあるのがその理由。ボナパルトの到着より10日ほど早かった計算だ。到着前にショーヴェはイタリア方面軍の状況について調べていたようで、彼はマルセイユから「イタリア方面軍に支給できるだけの物資はあるが、資金の不足によりそれを利用できない」(p456)という事実をパリの政府宛に知らせている。
 イタリア方面軍に到着したショーヴェがやったことについては、サリセッティが3月26日付の政府宛報告の中で言及している。
 
「主計官ショーヴェは有益な対応を取りました。長い間、軍管理のあらゆる部門において行われていたあらゆる種類の恐るべき荒廃と、それがとても恥ずかしい姿で軍にもたらした欠乏は良く知られているところです。彼は兵の窮状のあだを討つため、業務を浄化するため、そして誰が泥棒であるかを確認するため、雇用者の一時的拘束を命じ彼らの記録を提出させました。この方法は必要不可欠でした。間違いなく、この重要な部門によき秩序が再び現れました」
Campagne de l'Armée d'Italie, Tome Troisième"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k1072696/" p434
 
 そうやって軍の管理部門を再編した後で、彼は実際に必要な物資を調達すべくジェノヴァへ向かった。まず3月20日にニースを出立してサヴォナへ移動(p352)、遅くとも翌21日夕方にはサヴォナに到着した(p402)。ジェノヴァに到着したのが具体的にいつかは不明だが、それから間もない時期にジェノヴァに着いて業務を始めたと見られる。
 ショーヴェから遅れてニースの司令部に到着したボナパルトは、3月27日にジェノヴァにいるショーヴェ宛の手紙を記している(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Premier."http://books.google.com/books?id=uFYuAAAAMAAJ" p107-)。その中では様々な私企業から提供される予定の物資について言及されている(4万キンタルの秣や肉、穀物など)。このあたりはショーヴェが事前に手配していたのかもしれない。さらにボナパルトは手紙の中で「急ぎニースに戻ってほしい。君が必要だ。私が昨日書いた手紙に従って君は帰還する途上にある筈だ。到着が遅れれば遅れるだけ、私の作戦が成功する可能性が失われる」(p108)と記し、ショーヴェへの期待を表明している。
 だが、この手紙が書かれた頃に、ショーヴェは急な病に倒れていた。30日、サヴォナに来ていたサリセッティは総裁政府宛の手紙で「主計総監ショーヴェは(中略)ジェノヴァで重い病に倒れています。この本当に困難なアクシデントを何とか埋め合わせたいと思います」(Campagne de l'Armée d'Italie, Tome Quatrième"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k110541q" Documents, p88)と書いている。どんな病気だったのかは分からないが、フランス軍首脳部にとってはかなりショッキングな出来事だったようだ。
 ショーヴェと交代する筈だったがこの時点でも彼の下で働いていたスーシーが、3月31日付でボナパルト宛の手紙を記している(Biographie des Premières Années de Napoleon Bonaparte, I."http://books.google.com/books?id=dsVBAAAAcAAJ" p457-)。ボナパルトからショーヴェ宛の手紙は30日にジェノヴァに届いていたが「彼[ショーヴェ]はかなり深刻な性質の病気によってベッドに縛り付けられているためあなたの期待に沿うことはおそらくできず、おそらく15日ほど軍の業務を扱うことはできない」(p458)状態にあった。
 ただし、病に倒れる前に彼は様々な物資の手配を済ませていた。スーシーによればナヴァロ氏に6万フランを与え、ジェノヴァ周辺の秣8000キンタルをオネリアとアルベンガにもたらすことになっていたほか、2万8000ブッシェルの弾丸も用意していたようだ(p458)。他にも様々な物資に関する説明がスーシーの手紙で触れられている。しかしながらショーヴェの行動の全貌はスーシーも知らなかったようで、「一昨日、ショーヴェ主計官が取った手配について調べようと思った私は、彼から情報を得られなかったので、彼が取引していたと思われる人々を集めました」(p459)との文言も見られる。少なくとも29日時点でショーヴェは既に病に倒れていたようだ。
 ショーヴェは病から回復することはなかった。4月2日、彼はまだ27歳だった。情報を得たサリセッティは4日付の総裁政府宛手紙で「主計総監ショーヴェは芽月13日、軍への物資供給のため活動していたジェノヴァで死去しました。彼の喪失は極めて不幸な障害です」(Campagne de l'Armée d'Italie, Tome Quatrième"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k110541q" Documents, p119)と記した。そしてこの情報はアルベンガに司令部を移していたボナパルトの下にも届いた。
 「午前1時、私の下に手紙が届いた。それは私の魂を揺るがした。ショーヴェが死んだ。(中略)未来とは? 過去とは? 我々は何者なのか? どのような魔法が我々を取り囲み、我々にとっての最大の関心事項を覆い隠しているのか? 我々は驚嘆すべき世界に生まれ、生き、死んでいる」(Histoire Générale de Napoléon Bonaparte, Tome Premier."http://books.google.com/books?id=rbwWAAAAQAAJ" p416)。ショーヴェの死を知ったボナパルトは4月5日、ジョゼフィーヌに向けてセンチメンタルな手紙を記した。クレベールには「彼は誰も愛していない」と言われてしまったボナパルトだが、ショーヴェに対しては友情を感じていたのだろう。
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