予備軍の「伝説」

 ナポレオン漫画最新号、いよいよアルプス越えが始まった。フィクションとしてはアウステルリッツの時に出てきたクロイセの再登場(作品内時系列でいえばこちらの方が初登場か)が目立つところだが、全裸暗殺者というもの凄いインパクトを持っていたアウステルリッツに比べると今回は地味。それにしてもウォッカの臭いでばれるくらいだから生粋のロシア人だと思っていたのに、実はイタリア出身だったんだなクロイセ。
 なおほとんどの人が忘れているだろうが、ビナスコ村は最初のイタリア遠征時にフランス軍に対する反乱を起こしてランヌに鎮圧されたとこ。この鎮圧話は史実であり、ボナパルトが1796年6月1日付で総裁政府宛に記した報告書には「遊撃隊を率いるランヌ大佐(chef de brigade)は、700から800人の武装した農民が自衛しようとしていたビナスコ村を攻撃しました。彼は村に突撃し、100人ほどを殺し、残りを逃げ散らせました。私はすぐ村に火をかけさせました」(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Premier."http://books.google.com/books?id=QLPSAAAAMAAJ" p342)とある。さすがにクロイセの存在はフィクションだろうけど。

 さて史実との比較。最初にダヴィッドの絵が出てくるが、実はこの絵には微妙に色合いの違う5種類のバージョンが存在する"http://fr.wikipedia.org/wiki/Bonaparte_franchissant_le_Grand-Saint-Bernard"。正直、絵画史には全く興味がないので何で5種類もあるのか理由は知らないのだが、何も知らずに検索するとディスプレーの調子がおかしいのではないかと勘違いさせられる絵である。
 実際にアルプス越えの際にボナパルトが乗っていたのは馬ではなくラバだったのはよく知られた話(ソースは後ほど)。ラバに乗ったボナパルトはドラローシュが描いている"http://fr.wikipedia.org/wiki/Bonaparte_franchissant_les_Alpes"が、彼がこの絵を描いたのはボナパルトがアルプス越えをした半世紀ほど後のことであり、リアルタイム性という点ではダヴィッドの方がある。まあどちらの画家もアルプス越えに同行したわけではなく、従ってその絵も想像の産物である点は同じだろう。芸術的な価値はともかく、歴史的に見ればロシア遠征に同道してスケッチしたFaber du Faur"http://www.amazon.com/dp/1853674540"やAlbrecht Adam"http://www.amazon.com/dp/1844151611/"の絵の方が重要に思える。

 ジェノヴァに篭城したマセナの食料が30日分しかなかったという話は、4月27日付でボナパルトからベルティエ宛に書かれた手紙の中にある。「もはやミラノへ行くのではなく、マセナを解放すべく全力でトルトナへ向かうことを余儀なくされる可能性がある。もしマセナが敗北したら彼はジェノヴァに閉じ込められるだろうが、そこには30日分の食料しかない」(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Sixième."http://books.google.com/books?id=F2guAAAAMAAJ" p240)。ボナパルトの焦りを感じさせる文章だが、にもかかわらず彼は結局ミラノへ向かっている。
 アルプス越えの前にモローのライン方面軍にドイツ方面のオーストリア軍を攻撃させ、敵をスイスから遠ざけるのがボナパルトの狙いだった。そうやってスイスの安全を確保した後に予備軍がアルプスを越える予定だったのだ。だがモローの攻撃開始は遅れていた。
 パリとストラスブール方面は腕木通信によってつながっており、ライン軍の動きは逐一ナポレオンの下に届いていたようである。4月24日にはカルノーに対し「バーゼルとストラスブールからの本日の腕木通信によると、そこではまだ何も起きていないそうだ。敵を攻撃せよとモロー将軍に改めて命令せよ。彼の遅れが共和国の安全を主に脅かしていることを分からせよ」(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Sixième."http://books.google.com/books?id=F2guAAAAMAAJ" p229)との命令を出している。漫画で「モローに動けと言え」と話している部分がこれにあたる。
 実際にカルノーがモローにそうした命令を伝えたのかどうかは不明だが、翌25日にはようやくライン方面軍が攻撃を開始した。同日付のベルティエへの手紙でボナパルトは「今、腕木通信からの報告を受けた。今朝、ライン河で強力な砲撃が行われたそうだ。モローが戦役を本格的に始めた」(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Sixième."http://books.google.com/books?id=F2guAAAAMAAJ" p232)と記している。それにしてもボナパルトのような口うるさい上司に毎日のように動向を監視されていたモローには、ちょっと同情したい。

 ディジョンにおける予備軍は老兵と未熟な徴集兵ばかりで、それを見たオーストリア側のスパイが油断したという話が伝わっている。だが、これのソースは実はセント=ヘレナのナポレオン。彼はディジョンに集めた予備軍について以下のように述べている。

「あらゆるスパイと偵察兵がすぐこの都市[ディジョン]に注意を向けた。そこで4月はじめに彼らが見たのは、軍を持たない多数の参謀たちだった。そしてその月の間に5000から6000人の新兵と多くは障害を負った(中略)退役兵が集まってきた。この軍はすぐ嘲笑の対象となった。そして5月6日に第一執政が自ら閲兵をした時、大半が制服すら着用していない7000から8000人以下の兵しかいなかったことに人々は驚いた。(中略)この不正確な情報はブルターニュ、ジュネーヴ、バーゼル、ロンドン、ウィーンそしてイタリアを駆け巡った。風刺画が欧州に溢れた。その中には12歳の少年と木製の義足をつけた傷病兵が描かれ、その下にボナパルトの予備軍と書かれたものもあった。
 その間、本当の軍が編成され、行軍の準備を整えた。師団はいくつかの合流点で編成された」
Mémoires pour Servir à l'Histoire de France sous Napoléon, Tome Premier"http://books.google.com/books?id=A7YPAAAAQAAJ" p253-254

 実際にはディジョンに集められたのは予備軍の中央部隊であり、決してスパイを騙すための偽装部隊ではなかったようだ。少なくともde Cugnacはそう見ている。根拠の一つが3月3日にベルティエ宛に出された予備軍設立に関するボナパルトの命令で、その中で彼は「秘密を完全に守るように」(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Sixième."http://books.google.com/books?id=F2guAAAAMAAJ" p160)とベルティエに命じている。また、実際に各部隊が集められた場所は他ならぬディジョンであったこともde Cugnacは指摘している(Campagne de l'Armée de Réserve en 1800, Première Partie"http://www.simmonsgames.com/research/authors/Cugnac/ArmeeReserve/V1C2French.html" p38脚注)。漫画ではオーストリアの間諜クロイセが「騙された」と言っていたが、これは多分ナポレオン由来の伝説だろう。
 1800年の予備軍に関するナポレオン由来の伝説にはもう一種類ある。それは「憲法で第一執政が軍司令官になるのを禁じられていたため、ベルティエが予備軍司令官になった」という話だ。これまたナポレオンがセント=ヘレナで語ったことが元ネタになっている(Mémoires pour Servir à l'Histoire de France sous Napoléon, Tome Premier"http://books.google.com/books?id=A7YPAAAAQAAJ" p252)。そして、これまた事実ではないようだ。実際に共和国暦8年の憲法で関連する条文を見ると、以下のようになっている。

「第41条 第一執政は法を交付する。彼は議会、大臣、大使と他の外交官、陸軍と海軍の士官、地方政府のメンバー(中略)を任意に任命し、罷免することができる。(後略)
 第47条 政府は国家の対内治安と対外防衛に備える。政府は陸上及び海上の戦力を配分し、その運営を管理する」
Constitution Française de l'An VIII"http://books.google.com/books?id=7Q1AAAAAYAAJ" p10

 第一執政が自由に軍人の任命をできると書いているが、第一執政自体が軍司令官になってはいけないとの記述は見当たらない。彼が予備軍の司令官に自分自身ではなくベルティエを任命した理由は、憲法の制約以外にあると見なした方が安全だろう。どんな理由だったのかは想像するしかないが。

 話が長くなったので以下次回。
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