インド人もびっくり

 Lazare Claude Conqueugniotの"The Legion du Nord"についての続き。それまでプロイセン軍に動員されていたポーランド人を集めた部隊を作るに際し、欠かせないのは士官だった。兵隊だけでは軍隊にならないし、将軍だけがいても組織としては動かない。いかにして士官を集めるかは新たな部隊にとっては重要な課題だった。
 George Nafzigerの"The Eylau-Friedland Campaign of 1806-07"によると、これは当時のフランス軍の話だが、部隊編成の単位には「戦争用」と「管理運営用」があったそうだ。連隊(regiment)、中隊(compagnie)、分隊(escouade)はいわば軍隊という組織を円滑に動かすための「管理運営」単位。給与の支払いや補給の分配などはこういった単位で行われた。一方、「戦争用」単位である旅団(brigade)、大隊(bataillon)、小隊(peleton)は戦闘時にまとまって動く塊としての機能が中心だったという。
 そして士官はこの「戦争」及び「管理運営」の両方について仕事をこなす必要があったようだ。一人の士官が、管理職としての業務と、戦闘時に部下を率いる将校としての業務の双方を兼ねることになるわけで、兵隊ほど簡単に雇える職種でなかったことはうかがえる。
 ではConqueugniotの部隊はどうやって士官をまかなったのか。大半は既に引退していたフランス人の元士官によって埋め合わせたようだ。"The Legion du Nord"には同部隊に所属していた士官の一覧表が載っているのだが、その中にはいったん退職していたフランス人の名が多い。
 もう一つ多いカテゴリーが、帰国したエミグレ(亡命貴族)だ。中には革命前よりずっと低い階級で軍隊に加わった人物もいるという。60歳くらいの士官もいたというから中身はかなり多彩だったのだろう。もちろん、ポーランド人部隊なのだからポーランド人士官もそれなりの数がいた。
 そして、一部の「冒険家」と呼ばれる軍人たちもいる。こちらの国籍は様々で、要は軍隊という組織に紛れ込んで一旗揚げようとする連中だ。ナポレオン戦争は国民軍が主役になり始めた時代ではあるが、一方でいまだに傭兵的な存在も各地に生き残っていた。そして、Legion du Nordのような新しい部隊が編成される際には彼らもまた参入してきたのだ。
 たとえばイスラエル出身でダヴィデ王の末裔を自称する中尉がいた。かつてフランス革命に反対してゲリラ戦を繰り広げたブルターニュのシューアン(ふくろう党)の元将軍という大尉もいた。彼は聖ルイ勲章を持っていたそうだ。ある大尉は後方の連絡線守備を任されると、その地域を自らの王国であると宣言した。まるで「地獄の黙示録」に出てくるカーツ大佐。Conqueuginotにその行動の理由を問いただされると、彼はフォン=シル率いるプロイセン側義勇軍の攻撃から自らを守るための方策だったと答えたそうだ。
 中でも驚くのは、インド出身の士官がいたこと。ターディヴェルという名のこの士官についてConqueugniotは以下のように述べている。

「この士官はインド人でポンディシェリに住んでいた。英国人がその街を奪取した後で、彼を欧州へ連れてきた。インドで、あるいは海上での戦争によって英国の捕虜となり、奴隷状態に置かれたという不幸な経験が、彼を大胆不敵な人物にした」
p31

 どこをどう経由してLegion du Nordに加わったのかは分からないが、ターディヴェルは部隊と伴にダンツィヒ攻囲で活躍し、大尉に昇進した。その後、彼は第58歩兵連隊に加わったが、そこでは不運に見舞われたようだ。彼の手柄話は同僚に信用されず、しばしば周囲とけんかをした。おそらくそうしたトラブルのために彼はパリで後方勤務を強いられ、そのことを恥じて1810年に自らの頭を銃で吹き飛ばしたという。

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