モンテノッテ戦役関連の史料を調べていて、前に調査した件に関する言及を見つけた。ヴカソヴィッチがデゴに1日送れて到着した理由に関するもの"
http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/49656345.html"だ。
アルジャントーが出した4月14日未明時点での命令に「翌朝」の来援を求める文章があり、それを額面通りに受け取ったヴカソヴィッチが1日遅れの15日に戦場に到達した。Boycott-Brownなどはそう紹介している。本当に額面通りに受け取ったのか、それともヴカソヴィッチに何か思うところがあって故意に額面通りの解釈をしたのか、そのあたりはよくわからないが。
で、今回見つけたのはボーリューも「アルジャントーが日付を間違えたのが原因だ」と主張している点。彼が16日に記した皇帝及びトゥグート宛の報告書には、いずれもヴカソヴィッチの到着遅れの話が紹介されており、原因はアルジャントーにあると記されている。まずは皇帝宛の手紙。
「ヴカソヴィッチ大佐は1日前に到着しておくべきでしたが、アルジャントー将軍の間違った日付が記されていた手紙のためその朝に間違ってデゴの敵を攻撃しました。大佐は攻撃に成功した後で支援が欠如していたために押し返されました」
Campagne de l'Armée d'Italie, Tome Quatrième"
http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k110541q" Document p219
続いてトゥグートへの手紙。
「さらに不運を募らせたのは、サッセロに歩兵7個大隊と伴にいたある大佐が、アルジャントー氏に救援を求められ、5個大隊と伴に1日遅れでそこへ駆けつけたことです。アルジャントー将軍が手紙の日付を間違えたため、ヴカソヴィッチという名のその大佐は手紙の通りに到着し、単独で敵を攻撃してそれを崩壊させ、敵が前日デゴに残した大砲を奪回しました。彼はさらに500人の捕虜を得て敵を完全に追い散らしました。しかしすぐ後に敵の3個縦隊が[カイロ=]モンテノッテ方面から現れ、彼を攻撃しました。彼は私に救援を求めましたが距離が遠すぎました。もし前夜のアルジャントー将軍の退却によって私が支援のため前進させていた3個大隊が戻されなければ、これらの大隊は彼[ヴカソヴィッチ]に勝利をもたらしたでしょう。かくしていくつもの失敗が敵の勝利に貢献しました。大佐は後退を強いられ、奪ったものを全て放棄しました」
Document p216
少なくともボーリューはアルジャントーの手紙にある日付の間違い(mal datée)こそがヴカソヴィッチが遅れた原因だと見なしているようだ。彼自身が両者の間にあったやり取りを直接見聞きしていた訳ではないので、おそらくヴカソヴィッチから、あるいは両者から話を聞いたのだろう。アルジャントーに責任を負わせたがっていたボーリューの目から見れば、このケアレスミスは都合が良かっただろうし、だからこそ報告書の中でわざわざ言及したのだろう。
もっと想像を逞しくするなら、ヴカソヴィッチが「私はアルジャントー手紙の通りに行動した」とボーリューに対して強調した可能性がある。彼にしてみればデゴでの敗退について自らの責任を回避するもっとも適当な言い訳の材料がそれだったのではないだろうか。そして、この指摘はボーリューにとっても渡りに船だった。かくしてアルジャントーは敗北を購う生贄とされ、日付の間違いというケアレスミスゆえに無能と断罪された、のかもしれない。
というのも、実際問題としてアルジャントーが日付を間違えなくても結果はあまり変わらなかったと思われるからだ。現実問題としてヴカソヴィッチが14日中にデゴにたどり着くのは物理的に難しかったし、フランス軍との兵力差を考えるなら中途半端に来援しても各個撃破のいい標的になっただけだと思われる。それに1日遅れたからこそ奇襲効果で一定の成果を挙げられた面もある。ボーリューの述べている3個大隊の来援も、フランス軍が立て直した後になお勝利をつかめるだけの戦力とは思えない。
アルジャントーのミスは別に戦況を大きく変えはしなかった。そもそも戦役開始時点でオーストリア軍があれだけ分散していたこと自体が最大の敗因であり、それを何とかしない限り大きな流れは変わらなかっただろう。少なくとも日付ミスに関してはアルジャントーは非難されすぎに見える。
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