命令と資質と

 承前。モンテノッテ戦役における連合軍間の連携の悪さについて色々と書いてきたが、要するに目立つのはオーストリア軍の(ボーリューの)不手際である。ピエモンテ軍も消極的ではあったが、連絡不行き届きやマセナ以外のフランス軍を相手にする必要性など、消極性にも理由は見られた。一方、ボーリューの対応はどう見ても酷い。
 特に戦役後半になると彼らの前には1個師団(ラ=アルプ)だけしかいなかったのにフランス軍から遠ざかるように移動していたほど。Schelsによれば2万3000人、ボーリューの自己申告でも歩兵1万6000人を抱えていた彼らが、戦役前の時点で8600人しかいなかったラ=アルプ師団を前に何もしなかったのは、もはや裏切りと言ってもいいくらい。
 だが、ボーリューにしたところで別にわざと負けようとしていた訳ではないだろう。彼が酷すぎるほどの消極策に走ったのには、何らかの理由があったと考える方が妥当だ。そしてその理由としてBoycott-Brownが挙げているのが、ピエモンテ軍の裏切りに対する警戒感だったという。

 イタリア方面軍の司令官として赴任したばかりのボーリューに対し、皇帝は3月3日に手紙を書き送っている。その中でピエモンテについて「トリノの政府の能力と誠実さについてはほとんど当てにならない」(Campagne de l'Armée d'Italie, Tome Quatrième"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k110541q" Document p72)と断言。「トリノ宮廷が突然、同盟から離れるだけでなく、その弱さあるいは不誠実な政策ゆえに敵に加わることすらあり得る」(p140)とまで言っている。
 ピエモンテとフランスの間で和平交渉が行われていたことがオーストリア側の不信感につながっていたとFabryは指摘している。さらに皇帝は、ピエモンテの裏切りに備えて軍を決して分断させてはならないこと、またいざという時にアレッサンドリアやトルトナなどの要塞を力ずくで奪えるようにすることもボーリューに求めている。随分とえぐい要求だが、他ならぬ皇帝の求めとあっては一司令官に断るすべはなかっただろう。
 ボーリューの行動について、こうした「上からの命令による縛り」を考えるとより説明がつきやすくなるのは確かだ。例えばヴォルトリを落とした後にそのまま来た道を引き返した件。自軍の他の部隊がまだアルプス―アペニン山脈の北側にとどまっている中、ヴォルトリを落とした部隊だけがその南側で長期にわたって活動することは、皇帝による「部隊を決して分断させるな」という命に反しているうえに、ピエモンテ軍が裏切った場合にはこの部隊が孤立することにつながる。いったん引き返し、アクイ経由でアルジャントーに合流する方が命令に従うことになると判断した可能性はある。
 戦役後半になって自軍の集結にやたらと血眼になったのも、改めて命令のことが脳裏に浮かんだからかもしれない。実際、分断するなといわれていたのに軍はあちこちに分散し、フランス軍から各個撃破された。「ピエモンテ軍の裏切りに備えて」という皇帝が想定していた事態が起きた訳ではないが、それでも命令に反していたと言われても仕方ない状態。ボーリューはその責任をアルジャントーにおっ被せているが、一方で集結を急がなければならないと改めて思ったのも事実だろう。
 アクイから遠ざかるような移動も、アレッサンドリアやトルトナという要塞にできるだけ接近しておいた方が皇帝の命令に従い易いと考えた結果と見れば理解できる。皇帝としては政治的な背景も考えて行動しろという慎重な命令だったのかもしれないが、結果的にそれが連合軍の敗因の一つになったとも考えられそうだ。

 もう一つの問題はボーリュー自身にある。彼が司令官に抜擢されたのは、オーストリア宮廷の実力者であった外交官トゥグートが彼を気に入っていたからだそうだ。1793年にトゥグートがコロレードに宛てて書いた手紙の中で、彼は「ボーリューの成功を喜んでいる」と述べ、彼について「断固とした男で、常に実行こそが重要という意見の持ち主」(Vertrauliche Briefe des Freiherrn von Thugut, I. Band."http://books.google.com/books?id=8BFKAAAAMAAJ" p44)だと記している。とにかく実行というタイプの人物のようで、前線指揮官としては優れていたのだろう。
 だが、組織の運営者、マネジャーとしては問題があったらしい。ボーリューが主計総監としての仕事をしたときのことについてディートリヒシュタインがトゥグートに伝えているところによれば「ボーリューは前線あるいは独立した部隊の将軍としては、高齢の割に優れていますが、主計総監の仕事に関しては完全に無価値で、その機能を果たすことができず、主計総監などいない方が圧倒的にましなくらいです」(Thugut, Clerfayt und Wurmser"http://books.google.com/books?id=DIxBAAAAcAAJ" p121-122)となる。
 軍司令官ともなれば前線で奮闘するタイプの将軍よりも組織を動かすマネジメントに優れた人物が必要になる。ブリュッヒャーが機能したのはシャルンホルストやグナイゼナウがそうした仕事をしていたからで、もしブリュッヒャーが単独でプロイセン軍を指揮していたら状況は相当違っていただろう。そして、どうやらボーリューにはシャルンホルストやグナイゼナウに相当する部下は存在しなかったようだ。4月上旬に攻撃を始める決断を下したのはボーリューなのに、その時期になってもオーストリア軍がろくに集結できていなかったのは、明らかに組織を動かし損ねたからだろう。
 もちろん、ボーリューに組織運営者の能力があっても、この戦役で勝利するのは皇帝の命令がある限り困難だっただろう。おまけに相手はあのボナパルトだ。もとから無理ゲーだったと言われても仕方ない。それにしてもあれほど一方的な展開にはならずに済んだ可能性はある。
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