牽制か集結か

 承前。モンテノッテ戦役前半における連合軍の連携ミスについて調べてみた。次は後半。ピエモンテ軍が一方的に攻撃を受けている間、オーストリア軍は、というかボーリューは一体何をしていたのだろうか。
 Schelsによれば、デゴの戦いが終了した時点でボーリューの部隊は帝国軍をアクイの宿営地に集めていたという(Streffleurs militärische Zeitschrift, Zweiter Band. 1825."http://books.google.com/books?id=VBbE-lKv3qcC" p195)。そして、21日(モンドヴィの戦い当日)時点でもアクイ、テルツォ、ボスコに2万3000人と伴にいたことになっており(p199)、この期間中にほとんど動いていなかったように見える。ようやく動き出したのは23日になってからで、歩兵2個大隊と少数のユサール騎兵からなる前衛部隊がアクイからニッツァ=デラ=パーリャとカステル=ヌオヴォへ前進。翌24日にはボーリュー自身が歩兵16個大隊、騎兵22個大隊を率いてニッツァへと移動した(p202)。
 理由はともかくオーストリア軍はピエモンテ軍を助けるために動こうとはしなかった。Schelsの書いていることだけから判断すればそうなる。だが、実は違う。Schelsは嘘はついていないが、事実を述べてもいない。デゴで敗北した15日から、ピエモンテ軍が決定的な敗北を喫した21日までの間に、オーストリア軍は実は動いていた。ピエモンテ軍を支援するようにではなく、彼らから遠ざかるように。

 ボーリューがヴォルトリ遠征を終えてアクイに戻ってきたのは、本人の言によれば12日の夜(Campagne de l'Armée d'Italie, Tome Quatrième"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k110541q" Document p219)。既にモンテノッテの戦闘は終わっており、帰還早々にアルジャントーの右翼が壊滅状態に陥ったと聞かされた格好になる。4月16日付で皇帝やトゥグート宛に書かれた手紙によれば、彼はできる限り戦力をアクイに集め、16日にはそこから前進してアルジャントーと合流してフランス軍に反撃を加えるつもりだったそうだ(Fabry、Document p216やp218)。おそらく12日付でコッリに書いた手紙でも「ここに大隊を集めており、それが我が右翼に到着したら敵の先頭を止めることができるだろう」(Document p36)と述べている。しかし16日ではいかにも遅すぎた。
 14-15日、アルジャントーの部隊は今度はデゴで徹底的に叩かれた。アルジャントーの参謀長によればモンテノッテ以降、アルジャントー麾下にあったオーストリア軍12個大隊とピエモンテ軍4個大隊のうち「オーストリア軍2個大隊、ピエモンテ軍2、3個大隊は捕虜になった」(Fabry、Document p219)そうだ。捕虜だけで兵力の4分の1から3分の1に達しており、他の損害をあわせればアルジャントー師団が壊滅的な打撃を蒙ったことが想像できる。当然、16日に予定していた反撃なるものも雲散霧消してしまった。
 この敗北はかなりボーリューにとっては厳しいものだったようだ。16日の皇帝やトゥグート宛の手紙では敗因についてアルジャントーを責めているほか、彼の参謀長だったマルケッティまで批判し、代わりにツァッハ大佐やホーエンツォレルン少将を呼んでほしいと懇願しているほど(Fabry、Document p217)。そして16日時点での戦力について以下のように述べている。

「私の軍は全てあわせてもいまだに銃を持った歩兵が2万人以上に達したことはありません。これらの全ての戦闘によって少なくとも4000人から5000人を失っており、たとえたった4000人だったとしても我が軍に残っている全ては歩兵1万6000人のみです。これ以上、危険に晒すことはできないと考えるに充分だと私には思えました」
Fabry、Document p216

 そして彼は皇帝に「従って現在位置にとどまることはできず、アレッサンドリアとトルトナ間あるいはその周辺の宿営地に後退する必要があります」(p219)と、トゥグートにも「[モンテノッテやデゴなどの]致命的な一撃のため、アレッサンドリアとトルトナ方面の平野へ後退する必要があります」(p216)と書き記した。アレッサンドリアもトルトナもアクイから見れば北東方向、即ちピエモンテ軍とは反対側に存在する。
 ボーリューはこの決断をコッリに伝える手紙を17日に記した。その中で彼は後退の理由について「私の騎兵と補助歩兵隊を使えるようにし、派出して頼れなくなっている部隊を増やさないようにするため」(Fabry、Document p43)と述べている。アルジャントーの相次ぐ敗北で部隊を分散させることは危険であると気づいた彼が、慌てて兵力の集結を図っている様子が窺える文章だ。集結のためにはアレッサンドリアとトルトナ間の平野部が最も適切な場所だとボーリューは考えたのだろう。コッリに対しても「トリノの宮廷に、可能な限り多数の兵力を一ヶ所に集結させる必要があると思わせるべきだ」(p43)と助言している。
 しかし同盟国から見捨てられる格好になるコッリにとっては、これはとんでもない話だった。手紙を受け取った彼は「もしあなたがアクイの陣地を去ったなら、敵はあなたをトルトナとアレッサンドリア間に放っておき、私の左側面を迂回するでしょう。私としてはストゥラ川の左岸に渡り、最も豊かで重要な地域を放棄する他に助かる手段はありません」(p44)と悲鳴のような返答を18日付で出している。そしてアレッサンドリアとトルトナ間に騎兵などを集める場合でも「アクイの陣地を保持するのは可能です」(p44)と述べ、何とかボーリューを翻意させようとしている。
 だが、ボーリューは既にアクイより北東方向に20キロほど離れたノヴィへと移動していた。コッリに返答した19日付の手紙がノヴィから発信されているのが、実際にボーリューが同盟軍から遠ざかった証拠である(p45)。この日はフランス軍がコルサーリャ川に敷いたピエモンテ軍のラ=ビコッカ防衛線に攻撃を仕掛けた日であり、ピエモンテ軍による防衛が破断界に近づいていた局面であった。ピエモンテ軍にとってはオーストリア軍による牽制が何よりも欲しかった時期だろう。
 コッリの懇願に心が動かされたのか、あるいは単に冷静さを取り戻したのか、ボーリューはこの返答の中で「私は意見を変えた。後方へ下がる代わりに、まず私の兵をアクイ方面に集め、前衛部隊はベルボ川とボルミダ川間まで進めたいと思う」(p45)と方針の転換を告げた。そして、Schelsが書いたように24日にはピエモンテ軍に接近するようにニッツァへと移動を始めた。同日付でアクイから出したボーリューの手紙には「現在私は前進しており、全軍はニッツァ=デラ=パーリャへ移動中だ」(p50)と記している。16日に後退を決断してから1週間以上が経過しており、既にピエモンテ軍はフランス軍に対して講和を申し出ていた。

 アルジャントーの言い訳がきかないくらい一方的な敗北がボーリューの危機感を強め、兵力を集めるまでフランス軍から遠ざかるべきだとの判断につながったのが、どうやらこの一連の流れをもたらした要因のようだ。だが、いったん後方に下がって戦力を整えなおす時間の余裕などボーリューには与えられなかった。後世から見れば、何でそんな暢気な決断をしたのだろうと首を傾げたくなる。
 ヒントになると思われるのが、コッリに宛ててボーリューが記した17日付の手紙。その文末に「皇帝は私に増援を送ってくるだろう。彼らの到着は遅くなるが、まだ合流していない歩兵2個大隊があり、私の歩兵部隊の集結完了は途上にある。チェヴァがしばらく持ちこたえてくれるよう期待しよう」(p43)という文章がある。
 チェヴァ要塞の攻囲はボナパルトが最初から目的としていたところである。彼は1795年に記したイタリア方面軍の作戦に関する覚書で「イタリア方面軍は敵を攻撃し、ヴァドを占拠し、街道の防衛を再構築し、チェヴァを取り囲み、要塞を攻囲してそれを奪取する」(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Premier."http://books.google.com/books?id=QLPSAAAAMAAJ" p67)と記している。別の覚書でもモンテツェモロの高地を確保すると同時にタナロ川沿いに前進してきた師団が「ガレッシオ方面からチェヴァを囲む」(p69)作戦を提言している。
 ボナパルトがイタリア方面司令官としてパリを出発したとき、トスカナの外交官は「戦役はチェヴァ攻囲から始まるだろう」(The Road to Rivoli, p130)と言及している。ベルティエもイタリア方面軍着任後にケレルマンに書いた手紙で「我々はアクイとチェヴァに向かって前進する」(Fabry、Document p81)と記している。戦役が始まる段階まで、ボナパルトがチェヴァの攻囲を視野に入れていたのは間違いないだろう。フランス軍の攻勢がサヴォナからチェヴァへ向けられたのを見て、連合軍側がこれから攻囲が始まると考えたとしても不思議はない。
 だが、いざチェヴァ要塞の前に到着するとボナパルトはその攻囲をあっさり諦めた。代わりにリュスカ将軍を置いて守備隊司令官との交渉に当たらせ、軍隊はコッリ率いる野戦軍を叩くべく移動を続けた。フランス軍がまともにチェヴァ要塞の攻囲に当たっていればピエモンテ軍への追撃も緩んだだろうし、ボーリューによる部隊の再編も間に合った可能性がある。しかし要塞が相手にされず、フランス軍主力が全てコッリの野戦軍に向けられた段階で、もはや時間稼ぎは不可能になった。ピエモンテ軍に残された道は和を請うだけになった。ボナパルトの機を見るに敏な方針転換(融通無碍とか日和見主義とも言えるかもしれん)が、ボーリューのもくろみをあっけなく破壊した。
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