コッリとボーリュー

 前回はモンテノッテ戦役前半について、いたずらに戦力を分散させたオーストリア軍の自滅の要素が強いことを指摘した。では、同盟国であったピエモンテ軍(正確にはコッリ麾下にあるピエモンテ=オーストリア連合軍)には何の責任もないのか。また、最初にヴォルトリに攻撃を仕掛けた後は完全に空気と化してしまったボーリューは一体何をしていたのか、そのあたりをチェックしてみよう。

 コッリについてはいくらか同情の余地がある。何しろ彼は同盟国であったにもかかわらずボーリューが計画したオーストリア軍の攻勢作戦について何も伝えられていなかった可能性があるのだ。コッリ自身が4月13日に「彼[アルジャントー]がモンテノッテに対して行った移動を知りませんでした」(Campagne de l'Armée d'Italie, Tome Quatrième"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k110541q" Document p36)とボーリューに書き記しているし、アルジャントーも「ピエモンテ軍は我々の動きについて一言も知らされていなかったため、一人として私の支援にやって来ることはなかった」(p241)と述べている。Fabryに言わせれば「コッリに知らせるのはアルジャントーの義務だった」ということになるが、誰の責任にせよコッリに話が伝わっていなかったのは事実のようだ。
 コッリだけでなく、彼の指揮下に置かれていたプロヴェラのオーストリア分遣隊にもボーリューの攻勢について伝わっていた様子はない。ボーリューはヴォルトリへの攻撃を行う2日前、4月8日に「プロヴェラに両ボルミダ間の土地を守ることを委ねた」(Fabry、p227)。コッリがこの命令についてプロヴェラに伝える手紙を書いたのは9日の午後11時(Fabry、Document p32)で、プロヴェラからボーリューへの返答については10日に出されている(Fabry、Document p33)。他ならぬヴォルトリへの攻撃が実行された日にプロヴェラは防勢を取っていたのである。戦役開始の初期段階においてコッリ麾下の軍勢がほぼ動きを止めていたのは、連合軍間の連絡が悪かったことが一因だろう。
 もう一つ、コッリに同情したくなるのが、彼の目の前には大量のフランス軍がいたという事実だ。ボルミダ河畔にはオージュロー師団が、タナロ河畔にはセリュリエ師団が展開していたし、さらに西方のコレ=ディ=テンダ近辺にはマッカールとガルニエ師団の計7000人弱もいた(Streffleurs militärische Zeitschrift, Zweiter Band. 1822."http://books.google.com/books?id=d2mZbtXk15sC" p153)。ボーリューの前にいたのがマセナ麾下の前衛2個師団だけだったのに対し、ピエモンテ軍の方が全体として対峙すべき相手が多かったと見ることもできる。実際、コッリはずっとボルミダ及びタナロ方面に警戒していた。9日付のボーリューへの手紙で彼は「敵は常にタナロ及びボルミダ渓谷に増援を送り込んでいます」(Fabry、Document p31)と述べている。
 問題があるとしたら、正面への警戒が強すぎて何が何でも防勢を取らなければならないと考えていた様子が窺える点だろう。9日に「現時点では防御しかできないと自ら規制します」(Fabry、Document p31)とボーリューに記したほか、10日に司令部を訪れたピエモンテのラトゥール男爵に対しても「敵がボルミダとタナロを脅かしている現状では、徹底した防御を取るしかない」(Fabry、Document p35)と述べている。
 彼の消極的な姿勢は、実際にフランス軍の攻撃が始まった12日以降もピエモンテ軍の行動を鈍らせる効果をもたらした。モンテノッテの戦いについて知らされたコッリはデル=カレットのピエモンテ擲弾兵大隊にコッセリアへ向かうよう指示したものの、同日午後10時に記したプロヴェラへの手紙では「[敵が]ボルミダ沿いに深く前進してくるとは思っていない」(Fabry、Document p36)と述べている。この時点ではまだフランス軍の攻勢をそれほど深刻に捉えていなかった様子が窺える。
 だが、実際にはその翌日にコッセリアに対する激しい攻撃が始まった。デル=カレットの擲弾兵はプロヴェラ率いるギューライ義勇軍の少数兵力と伴にコッセリアの廃城に立てこもり、孤立する。コッリはいくつかの部隊を近くまで投入するが本格的な戦闘には入らず、自身もリヴィエラとピエモンテの境にあるモンテツェモロ峠で足を止めた。充分な兵力を集めきれなかったうえ、引き続きタナロ河畔のフランス軍に気を取られていたためだ。同日夜8時にボーリュー宛に書いた手紙で、彼は「私が行った攻撃的な動きは既にご存知でしょう。ですが敵は再びタナロ渓谷及びバルディネットに大軍で姿を現しました」(Fabry、Document p36)と述べている。結局、彼はコッセリアに立てこもった味方を救出できなかった。
 コッセリアが陥落した14日以後、ボナパルトの関心はデゴのオーストリア軍に向く。逆にいえばこの間、ピエモンテ軍に対する圧力は減る計算で、従ってここではピエモンテ軍がオーストリア軍を支援するためにも積極的にフランス軍に攻撃を仕掛けるべきタイミングであった。だが、コッリがやったのはむしろ逆に後退することだった。14日にコッリが部下に出した命令の中に「私は擲弾兵3個大隊と伴に可能な限り長くモンテツェモロを確保するつもりだが、夜になれば自身ペダジェーラに後退する」(Fabry、Document p40)と記している。
 後退の理由について彼はボーリューへの手紙で「敵が(中略)タナロ河畔を突破してきました。敵は3個縦隊でバッティフォロへ現れ、激しい戦いの後にそこを奪いました。彼らはチェヴァとモンドヴィ間の我々の連絡線を脅かしています」と記している。つまりセリュリエ師団によって後方への連絡を断たれそうになったのに対応するため「できる限りの兵をペダジェーラの宿営地に集める」(Fabry、Document p41)必要が生じたという訳だ。ずっと懸念を抱いていたタナロ方面のフランス軍が動き出したと知った段階で、なおオーストリア軍支援のため攻勢に出るだけの度胸は彼にはなかったのだろう。
 連絡不足による初動の遅れ、絶えず複数のフランス軍師団に注意を配る必要性など、ピエモンテ軍を取り巻く状況が厳しかったことは間違いない。デル=カレットの擲弾兵が増援としてコッセリアにたどり着いただけでも立派なものとも言える。コッリが積極性に欠けていたこともまた間違いないが、積極的に出られないだけの理由があったのだ。

 一方のボーリュー。彼が直率した軍勢がヴォルトリで勝利したことは述べているが、ではこの7000人の部隊はその後どうしたのだろうか。実は、その大半は来た道をそのまま引き返していった。
 Mémoires sur la Campagne de 1796 en Italie"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k107409r"によれば、4月10日の真夜中にヴォルトリへ入城したボーリューは「セルヴォニを追撃する意図を公言していた」(p16)という。だがセルヴォニがさっさと退却し、追撃が難しいと判明した段階で彼は方針を切り替えた。11日にヴォルトリで皇帝宛に記した手紙の中で、彼は今後の方針について以下のように述べている。

「まず4個大隊をファイアロに行軍させ、ここに2個大隊を残して、残りは全てすぐ我が軍右翼に向かいます。そこに到着するためいったんはアクイに転進しなければなりません。非常に困難な行動ではありますが、これらの山を[右翼へ直接向かうため]越えていくのはほとんど不可能です」
Fabry、Document p171

 オーストリア軍右翼のアルジャントーを支援するためモンテノッテ方面へ向かう、という判断は別におかしくない。だが、そのためにいったんアクイへ戻るというのはどうなんだろう。地図を見れば一目瞭然だが、ヴォルトリからモンテノッテへ向かう最も短いルートは海沿いにサヴォナまで進んでそこから山へ登るルート。これは他でもないフランス軍のセルヴォニが実際に通った道であり、彼はヴォルトリの戦いに加えて2日後のモンテノッテの戦いにも参加している。
 一方、ヴォルトリからアクイを経てモンテノッテへ向かうルートは、いったん山を越えて北上し、それから再び南下するルートとなる。どうみても直接向かうルートの倍以上の距離があり、2日後の戦闘に間に合う訳はない。ボーリューは直接モンテノッテに向かうには山道を通らなければならないと書いており、実際にヴカソヴィッチの部隊は山中を長い時間をかけて踏破したのだが、それは海岸沿いの道を通らなかった場合だ。セルヴォニを背後から追撃し続ければ、もっと短時間でサヴォナまでたどり着いていたのは間違いないだろう。
 もっとも、この「海沿い進撃」ルートが正しいかどうかの判断は難しい。ボナパルトにとってみればたった7000人程度の部隊がマセナの前衛部隊(1万5000人以上)近くにわざわざやって来るわけで、北方からアルジャントーの部隊も来るとはいえ各個撃破がし易くなるのは間違いない。フランス軍を避けてアルジャントーと合流したければ海岸沿いの道は選べないとボーリューが考えたのも決して間違いとは言い切れない。
 だが、遠回りな道を選んだことでアルジャントーの孤立と敗北が決定的になったのもまた事実だ。それに引き返す決断をしたことで、せっかく得たセルヴォニ相手の戦果を拡大することも不可能になった。コッリの消極性も目立つが、ボーリューの腰の引け具合も相当なものだ。

 以下次回。
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