各個撃破の責任は

 Boycott-BrownのThe Road to Rivoli"http://www.historydata.com/publications.php"を少し読み直した。主にモンテノッテ戦役に関する部分だが、読んでやはり疑問に思ったのは連合軍の連携の悪さである。ボナパルトは主に4月10~15日にかけて連合軍左翼のオーストリア軍を、16日以降に右翼のピエモンテ軍を攻撃したのだが、その間攻撃されていなかった方の軍はほとんど何もしていない。後のトラッヘンベルク・プランに従うならボナパルトが一方を攻撃している間に他方がその背後を突くくらいのことはしなければならないのに、この時の連合軍にはそういう動きが見られないのだ。
 連合軍が連携の悪さを突かれて各個撃破される展開はその後も何度も繰り返されており、その意味では珍しくはないものの、それにしても例えば同じ第一次イタリア遠征における他の各個撃破はもっと際どいものが多かった。リヴォリなどはまさに綱渡りだったし、カスティリオーネやアルコレもボナパルトが相当に追い詰められていたのは間違いない。だが、モンテノッテ戦役では他のものに比べフランス軍が追い詰められた場面が少ない(デゴやサン=ミケーレのように自滅しかける場面はあったが)。とにかく連合軍の不手際ばかりが目立つ。
 どうしてそうなったのか。The Road to Rivoliが参考にしている文献をチェックしながら理由を探ってみたい。

 まず戦役開始前の両軍の配置と数をチェックしておこう。Schelsによれば3月末時点のフランス軍は合計で4万2400人。ただしうち6900人はマッカールとガルニエが率いる後方師団なので、実働戦力は3万5000人強といったところだろう。うちマセナの前衛部隊2個師団が1万6500人と最も多く、そのうち5000人がヴォルトリに、残りはフィナーレからサヴォナ近辺に展開していた。オージュロー師団8000人はラ=ピエトラにいてボルミダ北上に備え、セリュリエ師団7000人はタナロ河畔のオルメアにいた。騎兵は4000騎に達していた(Streffleurs militärische Zeitschrift, Zweiter Band. 1822."http://books.google.com/books?id=d2mZbtXk15sC" p152-153)。
 この数は実際に戦役が始まる直前にはさらに膨れ上がっていたようだ。Boycott-BrownがBouvierのBonaparte en Italie"http://books.google.com/books?id=oMTQAAAAMAAJ"から引用しているところによると、4月9日時点では実働部隊がマセナの2個師団が1万8140人、オージュローが1万117人、セリュリエが9448人の計3万7705人に膨らんでおり、後方師団も含めると兵力は歩兵が5万6000人、騎兵3500騎に達していた。
 一方の連合軍だが、右翼を担うコッリの麾下にはピエモンテ軍2万人とオーストリア軍分遣隊(プロヴェラ麾下)5000人がおり(p157)、左翼のボーリュー麾下には名目上は歩兵3万2000人、騎兵5000騎が所属していた(p154)。もっともボーリューの実働兵力はもっと少なかったようで、例えばFabryによれば3月初め時点でのその戦力は実質2万5000人にとどまっていたという(Campagne de l'Armée d'Italie, Tome Quatrième"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k110541q" p141)。
 もっと問題なのは、連合軍の兵力はかなり広範囲に分散していたという事実だ。3月下旬時点でのボーリュー麾下の戦闘序列はFabryのp204-206に載っているが、全体の3分の1ほどに相当する5個旅団がポー河沿いのパヴィアまたはポー北岸のロディと、はるか後方に展開。またポー南岸とはいえ前線からはまだ距離のあるトルトナとアレッサンドリアにも3個旅団が駐留している。最前線にいるのはアルジャントーとピットーニの2個師団16個大隊だけであり、すぐに戦役に参加できない部隊が多数存在することが分かる。
 4月上旬の実際に戦役が始まる段階でも後方にいた部隊の多くはまだ戦場に到達していなかったようだ。Schelsを見ると、4月10日時点で前線まで来ていたのが確認できるのはパヴィアにいたアントン大公連隊の2個大隊(p170)くらい。ロディにいたドイチュマイスター連隊が後にデゴの戦いに参加している(p205)ので、2月中旬になってようやくポー河北岸にいた部隊が到着し始めたことが分かる。つまり、オーストリア軍は戦役が始まった後になってようやく集結を開始したのだ。

 ボーリューによるボッケッタ経由ヴォルトリへの前進は、ただでさえ分散している連合軍を一段と散らばらせる効果をもたらした。ただ、ヴォルトリへ向かったのはピットーニ及びゼボッテンドルフの部隊で、合計した数は7000人強(p174-175)。一方、ヴォルトリにいたセルヴォニ麾下のフランス軍はBouvierによれば5000人強だったそうで、両軍の数だけ見ればフランス側にとってそれほどの陽動効果はなかったように思える。実際にはヴォルトリへの前進以外にも様々なオーストリア側のミス(戦力分散)が各個撃破をもたらしたのではないだろうか。
 ヴォルトリでは数的優位を得たオーストリア軍だったが、モンテノッテでは圧倒的多数のフランス軍に打ち負かされた。Schelsによればアルジャントー師団は歩兵9000人、騎兵340人を抱えていた(p170)が、戦闘序列を見れば分かるようにこの部隊も広範囲に散らばっていたため攻撃に参加できたのはその一部にとどまり、実際にモンテノッテの戦場にたどり着いてフランス軍と戦った数はたった3000人しかいなかったという。一方、フランス軍はヴォルトリで戦ったセルヴォニ部隊を含めたマセナ前衛部隊の1万人(p183)。アルジャントー師団が全部モンテノッテ集まっていればもっと均衡した戦いになっていた可能性はあるが、この差では一方的な戦闘にしかならなかった。
 デゴにおいてもオーストリア軍の不手際は続く。14日に最初にフランス軍が攻撃を仕掛けてきた時、デゴにいたのはモンテノッテで手ひどくやられたシュタイン及びペレグリニ連隊の兵(Fabry、p245)と、ピエモンテ軍のラ=マリナ連隊2個大隊などごく少数だった(Schels、p201)。その戦力はたった3000人しかいなかったという(Fabry、Documents p201)。モンテノッテの敗北後もオーストリア軍が充分な兵力の集結をできていなかった、いやそれどころかモンテノッテに集まっていた部隊がその後であちこちにまた散開していたことが分かる。
 アルジャントーは上に述べたドイチュマイスター連隊とサルディニアのモンフェラート連隊を増援に送り込んだほか、サッセロにいたヴカソヴィッチの部隊3000人(Schels、p204)にもデゴに向かうよう命じた。だが、各個撃破を防ぐにはこれらの対応は遅すぎたようだ。まずヴカソヴィッチはそもそも戦場に間に合う場所にはいなかった。そしてドイチュマイスター連隊などが戦場にたどり着く前にデゴのオーストリア軍の敗北はほぼ決まっていたようで、彼らはデゴに到着する前にブリック=デル=カレットというところでフランス軍の反撃を受けた(Boycott-Brown、p248)。
 この4月14日の戦闘について、KrebsはCampagnes dans les Alpes"http://books.google.com/books?id=L-9xAAAAIAAJ"の中でフランス軍が8000-9000人だったのに対し、オーストリア=ピエモンテ連合軍は3000-4000人だったとしている(p397)。モンテノッテ同様、デゴでも連合軍は圧倒的多数に打ち負かされた(Digby SmithのNapoleonic Wars Data Bookによればフランス軍1万2000人、連合軍5700人となる)。翌15日もヴカソヴィッチが奇襲によって一定の成果を挙げたものの、最終的にはラアルプ師団が戻ってきたフランス軍に数で押し切られた(Smithによればフランス軍1万5000人、連合軍3500人)。

 ボナパルトのイタリア遠征では少ない兵力を抱えたボナパルトが連合軍を分断し、自らの主力を集中して敵を各個撃破する場面が多かったと言われている。だがモンテノッテ戦役の前半に関してはこの分断→各個撃破の公式が成立していたようには思えない。確かに連合軍は分断されたし、オーストリア軍は各個撃破された。だがその2つの現象の間には何のつながりもないように思えるのだ。
 何しろボーリュー麾下のオーストリア軍相手に戦ったフランス軍は、ほぼ最初から最後までマセナの前衛部隊だけだった。その数は上にも述べたように1万7000~1万8000人ほど。この数は、3月上旬にボーリュー麾下にいた数(2万5000人)よりも少ない。分断された一方の敵に主力で当たるという作戦をするなら、せめてマセナの部隊にオージュロー師団も加えてボーリュー麾下の軍勢と等しくなるくらいまで数を増やすべきだろう。
 ボナパルトがそうしなかったのは、そうする必要がなかったから。なぜならオーストリア軍は自分たちで勝手に分散していたため、いくらでも個別に叩ける状態にあった。マセナの部隊だけでモンテノッテ、デゴ初日、デゴ2日目後半と圧倒的な数的優位を確保できたのだから、それ以上部隊を集める必要はなかったのだろう。もちろん敵の分散を見逃さず一気に叩いたボナパルトの評価が下がるものではないが、どちらかというとオーストリア軍の自滅という印象が強い。

 長くなったので以下次回。
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