どうもこの数日、急にアクセスが増えている。どうやらこちら"
http://togetter.com/li/122225"が原因の一つらしい。前に「21世紀の銃剣突撃」について書いたことがあった"
http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/30062051.html"が、最近になってまた英軍が銃剣突撃をしたのをきっかけにそちらを参照する人が増えたのだろう。レッドコートの伝統いまだ滅びずってか。
ちなみに銃剣突撃が珍しくなかった時代を描いた漫画最新号は前半がふくろう党、後半がベルティエネタだったが、話としては前回ほどぶっ飛んではいなかったな。カルノーがまた滑車を使って登場したときはさすがに笑ったけど。という訳で簡単に史実との比較を。
ヴァンデの話が近年まで忘れられていたというのは怪しい。むしろ近年の方が忘れられていると言った方がいいだろう。1800-2000年までを対象にgoogle bookの中であるキーワードがどのくらい発見できるかを調べられるGoogle Ngram Viewerというのがあるのだが、母数の多い英語を使ってvendeeというキーワードを検索して見ると出現頻度が高いのは19世紀、特に19世紀末だった"
http://ngrams.googlelabs.com/graph?content=vendee&year_start=1800&year_end=2000&corpus=0&smoothing=3"。王政復古期と、フランス革命100年あたりが山になっている。一方、20世紀に入ると出現頻度はずっと右肩下がり。特に1970年以降はずっと低空飛行が続いており、文字通り「忘れられた」存在になっていることが分かる。
英語文献じゃ当てにならんという意見もあるだろうから、母数は少ないがフランス語でも調べてみた"
http://ngrams.googlelabs.com/graph?content=vend%C3%A9e&year_start=1800&year_end=2000&corpus=7&smoothing=3"。明確な傾向は見て取れないものの、19世紀から20世紀を通じて一定の頻度で登場し続けていることが分かる。ただ、19世紀末のフランス革命100周年の際にはほとんど注目されなかったのに対し、20世紀末の200周年時には比較的高い頻度で取り上げられたという傾向はないでもない。忘れられていたとは言えないが、最近になって注目度が高まったとは言えるかもしれない。
むしろ忘れられているのはヴァンデよりブルターニュ。漫画ではガッチャマンのコスプレで登場してきたふくろう党だが、彼らの活動拠点はロワール南岸のヴァンデよりもむしろブルターニュを中心としたロワール北岸の方だった"
http://fr.wikipedia.org/wiki/Chouan"。にもかかわらず、反革命でヴァンデの名はよく聞いてもブルターニュの名は目立たない。ふくろう党の面々はもっと文句を言っていいところ。
なお最初のページに出てきた戦闘シーンはこちらの絵"
http://fr.wikipedia.org/wiki/Fichier:Bataille_de_Cholet_1794.JPG"を参考にしたものだろう。ただしこの絵は、ショレの戦闘と書かれているものの有名な1793年のものではなく、1794年2月にストフレと共和国軍の間で行われた戦闘を描いたものだ。共和国軍を指揮したムーラン将軍は敗北して自殺したという(Guide des Lieux de Mémoire"
http://books.google.co.jp/books?id=oGInOLe9wD4C" p270など)。
軍団制度は1800年戦役以前から事実上導入されていた。1796年にはモローが麾下の軍勢を右翼(フェリーノ)、中央(グーヴィオン=サン=シール)、左翼(ドゼー)、予備(モロー)の各軍団に分割しているし、ジュールダンも左翼をクレベール、右翼をマルソーにそれぞれ任せていた。彼らはいずれも複数の師団を束ねて指揮しており、事実上の軍団長という立場にあった。現場の運用において既に成されていたことを、改めて制度化したというのが実態だろうか。
モローとボナパルトの間で作戦計画に関するやり取りがあったことは前にも書いた"
http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/49236082.html"。モローに対してボナパルトが提案した作戦計画については、書簡集に載っているベルティエ宛の1800年3月1日付文書に記されている(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Sixième."
http://books.google.com/books?id=F2guAAAAMAAJ" p154-156)。そこには全兵力をバーゼルとコンスタンス湖(ボーデン湖)間(つまりスイス領北部)に集め、シャフハウゼンとコンスタンス間でライン河に3つの橋をかけて渡河するよう命じている。全兵力を右翼に集め、連合軍の左側面を回り込むという作戦だ。
もちろん、この命令を伝えた使者をモローが切り裂いたという話はない。というか前のエントリーでも指摘した通り、この問題についてはモローの方が使者として参謀長のデソルをパリに派遣し、そこでボナパルトと作戦計画について話し合っている。モローはボナパルトの大胆な作戦計画を採用せず、複数ヶ所でライン河を渡るという自らの作戦計画にこだわった。結局、この時はボナパルトが譲歩している。クーデターを起こした直後の彼がまだ充分な独裁権力を握っていなかったことを窺わせる話だ。
予備軍成立は、漫画ではモローの作戦拒絶を受けて決まったかのように書かれているが、実際はもっと前から決定されていた。ボナパルトは同年1月25日のベルティエ宛の命令書で「第一執政が指揮を執る予備軍を組織するのが私の意図だ。この軍は右翼、中央、左翼の各軍団から成る。(中略)各軍団は1万8000人から2万人で構成される。(中略)右翼はリヨンに、中央はディジョンに、左翼はシャロン=シュール=マルヌに集結する」(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Sixième."
http://books.google.com/books?id=F2guAAAAMAAJ" p107-108)と記している。モローの返答にかかわらず、当初から自分が自由に使える軍を準備していたことが分かる。
予備軍の(名目上の)司令官にベルティエが任命されたのは4月2日。同日付でボナパルトはベルティエに司令官へ就任するよう要請を出している(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Sixième."
http://books.google.com/books?id=F2guAAAAMAAJ" p209)。文章としては要請だが、実際は命令だろう。もちろん、実際のベルティエの役割はあくまで予備軍の参謀長であり、事実上指揮権を握るのはボナパルトであることは上に紹介した手紙を見ても一目瞭然である。
ベルティエの代わりにカルノーが陸軍大臣になったのは、4月4日付のブリュヌ将軍宛の手紙で分かる。と言ってもカルノーはこのタイミングで亡命から帰国した訳ではない。2月26日にはカルノーに軍の監査官への就任を要請する手紙が書かれており(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Sixième."
http://books.google.com/books?id=F2guAAAAMAAJ" p151)、少なくともこの時点でカルノーが既に帰国済みだったことが分かる。
正確な帰国日時は分からないが、おそらくブリュメールのクーデター後にはもう戻ってきていたのだろう。カルノーを追い出した主役はバラスら総裁政府の面々であり、ボナパルトはオージュローを送り出して側面支援したものの本人が積極的にカルノーを追い出した訳ではない。またボナパルトは政権を握って以来、亡命者の帰国を促進するような政策を打ち出していたから、それも背景にあったのだろう。まだ政権の安定度が低かったこの時期には、カルノーのような共和主義者でも政権内部に取り込む必要があったのかもしれない。
いずれにせよこれで予備軍が設立され、これからマレンゴ戦役に向けて話が加速していくと思われる。そこで予め参考文献を一つ挙げておくなら、Simmons GamesのサイトにあるDe CugnacのCampagne de l'Armée de Réserve en 1800"
http://www.simmonsgames.com/research/authors/Cugnac/ArmeeReserve/TOCFrench.html"が適当だろう。事実上、1800年戦役に関する史料集のような本なので、史実との比較においては大いに役立つと思われる。さあこれで準備は万端。後は始まるのを待つだけだ。
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