謎の明治三陸津波

 何が謎なのかというと行方不明者数が、である。1901年に出された震災豫防調査會報告の第三十四號"http://tsunami.dbms.cs.gunma-u.ac.jp/xml_tsunami/xmltext.php?info=123%20reportmetatab%20reportsectab#3"によれば、この津波の犠牲者は「死者ハ二萬一千九百九人、傷者ハ四千三百九十八人、行衛不明ノモノ四十四人」になるそうだ。正直、行方不明者が少なすぎるのではないだろうか。
 昭和の三陸津波では死者1522人に対し行方不明が1542人とされる"http://www.skr.mlit.go.jp/bosai/jishin/tounannkai/kisochishiki/damage/02damage_history.html"。今回の津波は発生からほぼ一ヶ月経過したが、現時点で死者数と行方不明者数はほとんど同水準だ。引き波によって多くの人が海に流されてしまったためだと思われ、津波の恐ろしさを改めて実感するところだが、それではなぜ明治の時は行方不明者の数がここまで少なく計上されているのだろうか。
 問題になりそうなのは岩手県のデータ。陸中海嘯救助事務略記"http://tsunami.dbms.cs.gunma-u.ac.jp/xml_tsunami/xmltext.php?info=26%20reportmetatab%20reportsectab#1"によれば明治津波における岩手県の被害は「死亡男八千二百九十、女一万〇三百十合シテ一万八千六百人」となっているが、他には重傷者や軽傷者の数はあるものの行方不明者は記されていない。まるで引き波にさらわれた人間が一人もいなかったかのようである。
 だが、実際には行方不明者がもっと多数いたのではないかと思わせる記述もある。たとえば今回の津波で有名になったことば「津波てんでんこ」の普及に努めた人が書いた本"http://books.google.co.jp/books?id=Rk4p-VHZwl4C"によれば、津波後の新聞で階上村(現南三陸町)において「三百余の死体が、今なお見つかっていない」と記されているという。
 おそらく最大の被害者を出した岩手県が、行方不明者も死者として数えていたのではないだろうか。それを窺わせる記述が巖手縣海嘯誌"http://tsunami.dbms.cs.gunma-u.ac.jp/xml_tsunami/xmltext.php?info=48%20miscmetatab%20miscsectab#4"の中にある。釜石町の新沼澤右エ門なる人物は津波のため「家族一人モ其行衛ノ知レザレハ東奔西走捜索ニ従事シタレド遂ニ其甲斐ナシ」。結局、遺体を発見できないまま葬儀を営み、墓も建てたという。同じ釜石町の川端已之松も「同家族七人ノ内五人ヲ流亡シ一モ其屍体ヲ見ズ其他雇人四人亦影タニ留メス」という。
 昭和の津波、及び今回の津波から見て、どうやら三陸の津波災害は死者と同数くらいの行方不明者がでるのが珍しくないようだ。だとすると明治の三陸津波も実際に確認された死者は1万人強であり、残りは本当は行方不明者だったと考えられる。だが岩手はそれも死者に算入した。想像にすぎないが、行政当局が死者と行方不明者の区別をつけることができなかった可能性がある。
 上に紹介した津波てんでんこによると「六月十五日の夜八時にあったこの大津波のことを盛岡にある岩手県庁が知ったのは、十時間も経った翌朝の六時、陽が上がってからのことで、それも青森県庁からの電報で初めてわかった」(p49)ほどで、行政当局の初動は大きく遅れた。実際に北上山地を越えて現場にたどり着くにはさらに時間がかかっただろう。一方、時期は梅雨の最中である6月中旬。「二日も経つと死体が腐んで手の施しようがなくなる」(p50)。行政による確認を待たず埋葬された死者もかなりいたのではないか。
 上に紹介した新沼澤右エ門の場合、家族の生存を諦めて葬儀をあげたのは津波からたった2日後の17日だ。似たような事例が多数あったとしたら、県が死者と行方不明者の区別をつけられなくなっても不思議はない。実務上、死者と行方不明を正確に計上できなくなったため、全て死者にしたのではないだろうか。そう考えないと、少なすぎる行方不明者の説明がつかない、と思う。
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