津浪論文

 前回の続き。ネットを探していると「津波 ディジタルライブラリィ」"http://tsunami.dbms.cs.gunma-u.ac.jp/"なるサイトを発見した。どちらかというと明治以降の文献が中心のようだが、それでも充分参考になる。例えば1934年に出版された東大地震研の「昭和八年三月三日 三陸地方津波に関する論文及報告」"http://tsunami.dbms.cs.gunma-u.ac.jp/xml_tsunami/xmlindex.php?info=34%20miscmetatab%20miscsectab"には、「三陸沿岸に於ける過去の津浪に就て」という論文が掲載されている。
 今村明恒のまとめたこの論文には昭和の三陸津波に至るまでの15の歴史的津波について紹介がなされている。もちろん、貞観及び慶長津波も対象。うち貞観津波については史料は「三代實録に表はれたのが唯一のもの」だそうだ。今村は「如何に此津浪が絶群のものであつたか」と述べる一方、「次に記述する慶長津浪と共に、三陸津浪中最も激烈偉大なものゝ雙璧」と言及し、貞観・慶長の双方が非常に大きな津波だったとの見方を示している。
 その慶長津波について今村が示している史料は、駿府記"http://kotobank.jp/word/%E9%A7%BF%E5%BA%9C%E8%A8%98"、朝野舊聞裒藁"http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%9C%9D%E9%87%8E%E6%97%A7%E8%81%9E%26%23x88D2%3B%E8%97%81/"、福山秘府"http://kotobank.jp/word/%E6%9D%BE%E5%89%8D%E5%BA%83%E9%95%B7"など。それぞれについてオリジナルを調べられればいいのだが、残念ながらネット上で簡単に閲覧できそうなものがないので今村の引用文を見るとしよう。
 まず駿府記。それによると慶長津波は「政宗所領」で溺死者5000人、「南部津輕の海邊」で人馬3000余が死んだと記しているという。伊達政宗の所領といえば宮城県全域から岩手県南部まで含んでいたそうだが"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8F%B0%E8%97%A9"、宮城県一帯に津波が来たのだとしたら、こちらも貞観同様に仙台平野を襲った津波だった可能性がある。朝野舊聞裒藁でも「政宗領内大地震」と記し、こちらは使者を1783人としている。福山秘府では「東部逆浪海水溢れ、人夷死するもの多し」とあるそうだ。
 また駿府記と朝野舊聞裒藁のどちらか(あるいは両方)に、政宗の部下が漁人と一緒に津波の直前に出航して助かったという話もある。彼らの船は津波に押されて「山上の松の木の傍に止まつた」。実はその松の名が千貫松というのだそうで、それを理由に前回にも紹介した「船が千貫山まで流された」という話が出来上がったもののようだ。今村は「恐らくは附會の説であらう」と見ている。今回の津波も阿武隈川を結構遡っているが、千貫山まで1キロほどのところで止まっている"http://www.gsi.go.jp/common/000059845.pdf"のを見ると、千貫山まで届いたというのはいささか大げさな話なのかもしれない。
 続いて今村は三陸沿岸に伝わる口碑から慶長津波と明治三陸津波との比較を試みている。取り上げられているのは田老村(今回の津波でも大きな被害を蒙った)、船越村小谷鳥と大浦"http://protea.dbms.cs.gunma-u.ac.jp/TSUNAMI/tsunami_data/SanrikuChihoTsunami_miyazaki/image/SanrikuChihoTsunami01_0006.jpg"、山田町字關谷と織笠村"http://protea.dbms.cs.gunma-u.ac.jp/TSUNAMI/tsunami_data/SanrikuChihoTsunami_miyazaki/image/SanrikuChihoTsunami01_0007.jpg"などで、いずれも慶長津波の方が明治よりも内陸部まで水が入り込んだことを示している。
 今回は三陸各地に防波堤や防潮堤が築かれていたため、慶長や明治との単純比較は難しい。たとえば釜石のギネスに載った防波堤は、最終的には津波の勢いに破壊されたものの「沿岸に達した津波の高さを13・7メートルから8メートルに下げ、陸上での最高到達点の高さも20・2メートルから10メートルに軽減し、津波が防潮堤を越えて市街地に流れ込む時間を6分間遅らせた」"http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20110403ddm003040104000c.html"という。場所によっては明治よりも到達点が低いところもあったかもしれない。
 もしこれらのハード対策がなければ、今回の津波はどの程度の威力だったのだろうか。今村は慶長津波について明治の津波よりも「40%、少くも30%程大きかつた」と結論付けている。今回の津波が貞観、慶長の再来なら、東北から関東にかけての太平洋岸はそれだけ大規模な津波にさらされたことになる。
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