3人の将軍

 ナポレオン戦争時代は将軍といえども最前線に立つのが当然だった。当然ながら戦場で命を落とす危険も高い。元帥たちの中でランヌやベシエールが戦死したのは良く知られているが、別に高級将校で死んだのは彼らだけではない。ボナパルトが歴史の表舞台へ華々しく登場したイタリア遠征の初期段階で、歴史どころか人生の舞台から退場してしまった不幸な面々もいる。

 1人目はピエール・バネル"http://fr.wikipedia.org/wiki/Pierre_Banel"。ボナパルトより3歳年上となる1766年生まれの彼は革命前の常備軍で兵士や下士官を務め、革命後に志願兵大隊の士官となった(Georges Six "Dictionnaire Biographique... Tome I" p47)。この時期の士官としてはそれほど珍しい経歴ではない。戦争が始まると東部ピレネー軍で戦い、1793年に臨時の准将に任命され95年に正式に准将となっている。
 96年4月4日にオージュロー師団の旅団長となった彼は、13日に行われたコッセリア攻撃に参加した。廃城に立てこもるオーストリア軍相手に行われたこの攻撃はかなり厳しいもので、フランス側ではジュベールが負傷している。それでもジュベールは生き残っただけマシ。バネルはこの戦闘で戦死したのだ。彼の死についてボナパ
ルトは4月15日付の総裁政府への報告書で以下のように述べている。

「バネル将軍麾下の第2縦隊は武器を持って沈黙したまま行軍していたが、この勇敢な将軍は敵の防御陣地の足元で戦死した」
Correspondance de Napoléon Ier, Tome Premier."http://books.google.com/books?id=uFYuAAAAMAAJ" p149

 死因についてもう少し詳しく書いているのはVictoires, conquêtes, désastres, revers et guerres civiles des Français de 1792 à 1815, Tome Cinquième"http://books.google.com/books?id=zA09aXSiAIYC"。それによるとバネルは「榴弾砲の発射によって殺された」(p185)のだそうだ。結局、彼の死はコッセリア陥落の役には立たず、オーストリア軍は水の枯渇によって翌日に降伏した。

 2人目はジャン=ジャック・コース。バネルよりずっと年上の1751年生まれの彼もやはり旧体制の常備軍で兵から下士官へと昇進した人物だが、バネルと異なり彼は革命後も常備軍にとどまり、そこで士官として昇進を続けた。やはり東部ピレネー軍に所属し、93年に臨時の准将に、95年に正式に准将になったところまでバネルと同じ(Georges Six "Dictionnaire Biographique... Tome I" p205)。
 イタリア方面転属後はラアルプ師団に所属し、モンテノッテで戦った。彼が致命傷を負ったのは4月15日に行われた二度目のデゴ攻撃だ。ボナパルトは16日付の総裁政府への報告で、バネルよりも詳細にその経緯を記している。

「私が到着した時、コース将軍は第99半旅団を再結集し、敵に向かって突撃して銃剣を構えて彼らのところにたどり着こうとしていた際に致命傷に倒れました。前日[デゴへの1回目の攻撃]の行動に見られたように、死の瞬間における彼の大胆な振る舞いは兵士たちを大いに悲しませました。
 彼が私を最初に見た時に聞いてきたのは、デゴは奪回しましたか、というものでした」
Correspondance de Napoléon Ier, Tome Premier."http://books.google.com/books?id=uFYuAAAAMAAJ" p155

 最後に書かれている「デゴは奪回したか」というのがどこまで事実なのかは分からないが、この報告は後の人間の想像力をいたく刺激したようだ。Victoire...にはこの話がさらに盛り上げられて以下のように描かれている。

「[コースが致命傷を負った]少し後、自らの存在によって戦意を回復させようと試みているボナパルト将軍を見て、彼は問いかけた。『デゴは奪回しましたか?』。奪い返したと将軍が言うと、勇敢なコースは付け加えた。『共和国万歳! これで満足して死ねる』」
Victoires, conquêtes, désastres, revers et guerres civiles des Français de 1792 à 1815, Tome Cinquième"http://books.google.com/books?id=zA09aXSiAIYC" p190

 このあたりまで来るとお話としてはともかく史実かどうかは怪しい。しかしながら軍事関連の史料にはこの手の話がかなり多いのもまた事実。史料を読む際には注意が必要な部分だろう。

 戦死したのはフランス軍だけではない。連合軍側にもこの時期に死んだ将軍はいた。3人目となるその人物はピエモンテ軍のヴァサル=ジャン=ガスパール・ディシャ=ド=トワサンジュ"http://www.historydata.com/biographies/dichat.php"。サヴォワのシャンベリー(もともとピエモンテ領だったがフランス革命戦争時にはフランス軍の支配下にあった)で1740年に生まれた彼は10代でピエモンテ軍に士官候補生として入隊。擲弾兵部隊の士官として出世を続けた。
 戦争が始まった後の1793年には王立擲弾兵臨時連隊の指揮官となり、フランス軍相手に戦った。95年には大佐、そして96年3月26日に准将へと昇進している。それから1ヶ月も経たない4月21日、モンドヴィの近くで戦死した。

「[フランス軍]第19半旅団が銃剣を構えて突進し堡塁を奪った。騎士ディシャは額に致命的な銃弾を受けて斃れ、指揮官の死に混乱した王立擲弾兵たちはトラッサとカラッソーネへ逃げ出した」
Mémoires et Documents publiés par la Société Savoisienne, Tome XXXVI"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k5751405t" p534

 ディシャの死についてはジョミニもHistoire Critique et Militaire des Guerres de la Revolution, Tome Huitièmeで言及しており("http://books.google.com/books?id=cyUDAAAAYAAJ" p95)、フランス側でもそこそこ知られていた様子が窺える。そして、彼の死についてもコース同様に伝説っぽいものが生まれている。
 それによると、ピエモンテ軍が敗走を始めたとき、ディシャが部下を危険に晒すような動きをしているのに司令官のコッリが気づいた。コッリが「どこへ行くつもりだ、正気なのか(直訳だと『頭を失ったのか』Perdez-vous la tête)」と聞いたのに対し、彼は「その逆です」と答え(あるいは何も言わず)、部下を率いて味方の退却を助ける重要地点へ向かってそこで長時間にわたってフランス軍の攻撃を支えたのだそうだ。そして、最後に額を撃たれて倒れた時、「コッリ将軍に伝えてくれ、ディシャがどのように頭を失ったかを」(c'est ainsi que Dichat perd la tête)と言ったのだとか(Histoire de la maison de Savoie, Tome Troisième"http://books.google.com/books?id=UWk5AAAAcAAJ"のp440-441、Storia Militare del Piemonte"http://books.google.com/books?id=ZBc8AAAAcAAJ"のp659-660)。
 普通に考えて額に弾丸が命中した人間が暢気に駄洒落をかますことなどあり得ないから、おそらくこれは史実ではなかろう。にもかかわらず複数の本に紹介されている訳だから、それだけ伝播力の強いミームだったと思われる。
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