モニトゥール紙その4・後編

 承前。
 
 滅多にない実績を持つ士官である参謀副官のトゥヴノ大佐に、この攻撃の指揮と、ジュマップ及び敵右翼全体の奪取を委ねました。敵の左翼に対してより効果を上げられるよう、アルヴィユ将軍には彼の砲列をより接近させるよう要請しました。ブールノンヴィユ将軍にも同じ機動と、正午ちょうどに攻撃を行う準備をするよう求めました。同じ命令を左翼にも出しましたが、それによって我々がカリニョンを支配するものと見積もっていました。もし敵がかの地を支配し続けていれば左翼での攻撃がこの村から迂回されてしまうため、そこの占拠は必要でした。正午ちょうど、全歩兵は一瞬のうちに大隊縦隊を組み、素晴らしい速度と歓喜の中、敵の防御拠点へ向かって前進しました。一つの縦隊として後ろに残るものはいませんでした。
 第1段目の堡塁がまず素早く奪取されました。しかしすぐに障害は増し、中央は窮地に陥り、縦隊の側面に突撃するため敵の騎兵が平野部に入る準備をしているのが見えました。私はエガリテ中将を送り込み、彼は冷静に極めて手早く縦隊を再編し、第2段目の堡塁へと彼らを導きました。私は第3猟騎兵連隊と第6ユサール連隊にこの攻撃を支援させました。彼らは敵騎兵を阻止し、突撃するのにちょうどいいタイミングで到着しました。同時に私は右翼へ向かいましたが、そこではブールノンヴィユ将軍による堡塁攻撃が、迂回と奪取によってあらゆる成功を収めた後に、歩兵の先頭を占めていた騎兵が少しばかりの混乱に陥っていました。私は彼らを急ぎ再編し、同時に既に我々の右側面にやって来ていた敵騎兵に対し大いなる活力で突撃を行いました。この再編の間に、敵騎兵1部隊がパリ第1大隊を押しつぶそうとしましたが、彼らは頑強にそれを受け止め、突撃者のうち60人を殺しました。右翼におけるこの戦闘の幕間に、中央は第2段目の堡塁を奪いました。高地では新たな戦闘が必要でしたが、それはさほど激しくも長くもないものでした。オーストリア軍は我が兵の常に増大する頑強な価値に完全に恐れをなしていました。
 2時、彼らは大混乱の中、退却を行いました。我々の兵は両軍の使者が散らばる敵の陣地全てを占拠しました。彼らの損害と狼狽はかなりのもので、彼らはモンスの町を通過してベルテルモンでも、パリセールの丘でも、ニウシーの高地ですら足を止めることはできませんでした。
 私は勝利を収めた軍をキュームの村まで前進させ、そこを歩兵で占拠しました。この村では13ポンド砲1門を手に入れました。負傷者、落伍兵がそこに集められました。同日、私はアルヴィユ将軍の師団にパリセールの丘を、ステーテンボッフェ准将の師団にベルテルモンを占拠させました。
 私はモンスの町に降伏勧告を送り、交渉に入りました。詳細は同封した資料でお分かりになるでしょう。既に3日の野営を行い、この恐ろしい会戦当日はスープを作ることすらできなかった兵たちは、常に同じ熱意を示し、モンスに言ってその城壁をよじ登る許可を私に求めました。私は翌日にはその希望を満足させると約束することを余儀なくされ、実際にモンスを囲む攻撃陣地を補完し、同時にいくつかの場所を攻撃できるよう部隊を配置しました。敵は夜を利用してそこを撤収し、そこに残した最後の400人も午前9時頃にはそこを去りました。
 私自身が砲兵隊と一緒にいた9時に、オーストリア軍が閉じた城門を破った住民が、私に町へ入るよう招きに来ました。私はすぐ入城しました。執政官たちは町の城門にいて、鍵を私に差し出しました。私は自らの手を掲げ「我らが兄弟及び友人として来たのは、常にその城門をかつての圧政者たちに対して閉じ、我らが勝ち取った自由を守るためだ」と彼らに言いました。
 この永遠に記憶に残る日は、フランス国民を不滅の栄光で覆いました。どの歩兵大隊も騎兵大隊も、いや軍のどの一人ひとりでさえ、至近距離で敵と戦わなかった者はいませんでした。あなた方は既にブールノンヴィユ将軍の才能と価値をご存知でしょう。他の将軍たち全て、特にエガリテ将軍は、兵たちの指揮に際して大いなる知性を示しました。幕僚士官たちと副官たちは、砲撃の真ん中、恐るべき虐殺の中で、偉大な活動力と極めて高い正確性をもって命令を運びました。ドルーエ将軍は射撃によって足を砕かれました。参謀副官のショーモン大佐は腕を銃弾に貫かれ、乗っていた馬を殺されました。フェラン将軍は足に酷い打撲傷を負い、乗馬1頭を殺されました。参謀副官モーソワは口に銃弾で穴を開けられ、7本の歯を持っていかれました。第104連隊のデュブレ大佐は重傷を負い、国民憲兵隊の中尉である市民ベルティシュは41ヶ所の刀傷を負いながら7人を殺しました。ドゥー=セーヴルの2個大隊の中佐である市民ラフォスは、銃弾によって腕を砕かれました。他にも多くの士官と兵たちが戦死し、負傷しました。
 私はまだ我々の損害の正確な数を知りませんが、約300人が戦死、600人が負傷と見積もっています。各部隊から情報を受け次第、あなたがたに状況をお知らせします。彼らはブールノンヴィユ将軍の前衛部隊が奪った5門と、我々の左翼の攻撃で奪った3門を含む8門の砲兵を失いました。砲兵はその勇気と、我らの敵に恐れられているいつもの能力で役に立ちました。敵の損失は、戦死、負傷あるいは落伍者を含め少なくとも4000人にのぼりますが、我々が日々集めているほとんど同数の放置され、軍から離れ行方不明になった者はその数に含んでいません。以上がベルギーの征服にとって決定的だったこの戦いの詳細です。オーストリア軍はこれ以上敢えて本格的会戦を試みようとはしないでしょう。この戦闘で我々は、たとえ地形を活用する技術と手を組んだとしても、フランス兵の勇気を止めることはできないことを証明しました。
 私はこの報告を我が副官、中佐にして偉大な勇気の持ち主である市民ラリューを通じて送ります。
 司令官、デュムリエ。

Réimpression de l'ancien Moniteur, Tome Quatorzième."http://books.google.com/books?id=z5IFAAAAQAAJ" p434-436
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