日本海海戦・余談

 日本海海戦について、本論とは別に余談をいくつか書いておこう。
 
 一つはコメント欄でのSLEEPさんとのやりとりでも触れているが、連合艦隊が甲板上に積み上げていた石炭の処理について。司馬遼の坂の上の雲では、軍楽手らが石炭袋(史料にはかます"http://homepage3.nifty.com/tkumagai/kamasutyuumon.html"とある)を海中投棄したと書かれており"http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/2006/08/post_277.html"、それが河合太郎の証言によるものだとの推測もできる。
 一方、三笠の戦闘詳報には「[午前5時]三十分十二尹[インチ]砲発射の障害たらんことを恐れ前後甲板に積載せる石炭(予め北上するときの用意に石炭を満載しあり)を中甲板及下甲板に下し」たとの文章がある(C09050340600、1/55)。海中に捨てたのではなく、あくまで艦内の別の場所に移しただけという主張だ。一体どちらが正しいのだろうか。
 他の史料を見ると春日も三笠同様「前後甲板上の石炭を収納す」(C09050253600、7/86)と書いている。ただ、どこに収納したのかは不明。一方、常盤は「上甲板に搭載せし叺[かます]入の石炭約九十三噸を海中に投棄す」(C09050257300、2/72)と記しており、こちらは海中投棄派だ。
 最も詳しいのは日進。「是れより先本艦は旗命に基き出来得る限り石炭積方を実施し上甲板に於て百六十噸の袋積をなしあり戦闘に障害あること甚しく且つ之れを下部に卸ろすの余地なきを以て艦外に投棄するに決し出港後直に両舷直を以て之を海中に投下せしが凡そ四十分を以て之を結了」(C09050253800、6/63)したという。単に海に投げ捨てるだけと思っていたが、意外に時間がかかっていることが分かる(実際には投棄後に甲板掃除もしているのでさらに時間を要したはず)。
 そう考えると、河合太郎証言の方が正しかった可能性は充分にありそうだ。日進の詳報に書かれているように、石炭投棄は結構時間を要する作業。まして投棄ではなく別の場所に移すとなるとさらに時間がかかるだろう。海戦に向けて移動中の艦内で、そうした作業に必要以上の時間をかける余裕があっただろうか。むしろさっさと海中投棄の判断を下した方が手っ取り早い。他にどの船も投げ捨てていないのなら自艦だけが投棄するのは躊躇するかもしれないが、実際に捨てた艦もあるのだからあまり遠慮はしないはず。
 もちろん、以上の考えが絶対だとは言えない。まず第一にこんなことで嘘を書き込むべき動機が三笠戦闘詳報の書き手にはない点が問題だ。捨てるか否かの判断は詳報の書き手がしたものではないだろう。自分の責任ではないのだから捨てたなら捨てたとの事実を素直に書けばいい。むしろ嘘を書く方が責任を負うことになる。また、トン数でいえば日進の倍もある三笠なら、日進と異なり石炭を押し込める場所もあったかもしれない。投げ捨てたと証言した河合太郎だが、もしかしたら他の艦の知り合いから聞いた話を何年も後に自分の経験だと思い込んだ結果だとも考えられる。人間の記憶は当てにならない。
 三笠甲板上にあった石炭は捨てられたのか、それとも単に場所を移動しただけなのか。正解を知りたければ三笠乗組員の証言をかき集めるしかないだろう。そこまでやる気はないので、誰か詳しい人がいたら教えてほしい。
 
 もう一つはこちら"http://oyoguyaruo.blog72.fc2.com/blog-entry-3091.html"でも触れられていた久松五勇士について、なんだがここの短い文章には間違いが多い。まずそもそもバルチック艦隊を発見した奥浜牛は石垣島には向かっていない。宮古島から石垣島まで行ったのは別の5人である。
 そのあたりはwikipedia"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E6%9D%BE%E4%BA%94%E5%8B%87%E5%A3%AB"にはきちんと触れられている、んだが実はこちらの文章にも間違いがある。何より決定的なのは宮古島から石垣島まで「170キロの距離を」漕いだという部分だ。
 googleマップでもyahooマップでもいいから宮古島と石垣島の距離を見てほしい。直線距離で約100キロしかないのが一目瞭然だ。もちろん船で行く場合にはもっと距離は長くなるものの、実際にシーカヤカックで渡った人のblog(多良間島経由)"http://realadventures.weblogs.jp/weblogs/2007/10/part0_8f5f.html"によれば距離は117キロ。どう考えても170キロは長すぎる。
 久松五勇士についてはこちら"http://akmiyako.ti-da.net/e2720688.html"とこちら"http://akmiyako.ti-da.net/e2720739.html"に詳しい考察があり、それを参考にした方がいいだろう。よく分からないことが沢山あることが記されている。奥浜牛がバルチック艦隊を目撃したのは23日なのに5人が宮古島を出発したのは3日後の26日だといわれていること、出発時間にも諸説あり、石垣島の上陸地点も伊原間と白保の両説があり、石垣島に到着してから電信使節のある八重山郵便局へ出発するまでに空白の時間帯が存在することなどなど。そもそも彼らが乗っていたサバニ"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%90%E3%83%8B"は帆走も可能な船であり、間違いなく漕破したのかどうかといわれるとその証拠もよく分からない状態だ。
 八重山から電報が発信されたのは28日午前7時10分"http://www.kinenkan-mikasa.or.jp/epi/hisamatsu.html"。日本海海戦の2日目である。大本営海軍部に到着したのは午前10時であり、情報としてはとうの昔に古びていた。昭和の初期にこの話が紹介された時には「遅かりし一時間」という題で伝えられたようだ"http://www.miyakojima.net/kankou-meisyo/goyuusi.html"が、実際には1時間どころか丸1日以上遅れた情報だったのである。
 という訳で、それほど複雑な事象ではないにもかかわらずやたらと沢山の間違いや不明な点が含まれているのがこの「久松五勇士」に関する挿話だ。しかし彼らが15時間程度で120キロほどの距離を渡りきったのはおそらく事実。もし漕いで渡ったのだとしたら、彼らは間違いなく体力の化け物だ。上に紹介したシーカヤックを使った事例の場合、途中ほぼ丸一日の休養を挟んで117キロに18時間を要している。シーカヤック組が3艘を6人で漕いだのに対し五勇士は5人で1艘のサバニを漕いだわけで、その意味では5人の方が有利とも取れるものの、人数が多いと今度はよほど息を合わせなければうまく進まなくなる(たった2人でも息を合わせるのが大変なのはこちら"http://www.powersports.co.jp/kayak/miyako-ishigaki/2.htm"を参照)。彼ら5人の凄まじい体力と習熟度が窺える話である。
 ちなみに久松五勇士についてはこんな歌"http://www.youtube.com/watch?v=cX5224J3ZLU"もあるし、お菓子もあるらしい。史実がどうかとは関係なく、完全に一つの物語が出来上がっている。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック