日本海海戦前の北進論・蛇足

 今回は論拠のある話というより妄想が中心。連合艦隊司令部が封密命令の25日午後3時開封を考えていなかったのではないかとの説を紹介した。それではなぜ藤井は談話の中で、自分「只一人のみ」が即時北進に反対したと主張したのだろう。

 25日の会議前に行われた藤井と佐藤の会話にヒントが隠されているように思う。佐藤はここで藤井から「君は[北方へ]移らぬ方か」と聞かれて「いや私は移る方です」と答えている。だがその内実を詳しく言うなら移る時期は「二十六、七日頃」であり「今移ると云うのですか。それはとんでもない話である」というものだ。どうも言葉の使い方において、藤井と佐藤の間に齟齬があるように思える。
 藤井の言葉を額面通りに受け取るなら、彼が重視しているのは「北進派」か「待機派」かという視点だ。移らないか、さもなくば移るか。こう質問されれば、津軽と対馬のどちらに来てもいいよう隠岐の島に移るべきだと考えている佐藤も当然「移る方です」と答えるだろう。しかし、その後で藤井は変なことを言っている。繰り返しになるが佐藤証言を掲載しよう。

「『そんなら君は二十七日頃になってから移ると云うのなら移らぬ方じゃないか』、『いや移るですよ』と云うと『可笑しいな、君は移らぬ方の主張じゃないか』『今移ると云うのですか、それはとんでもない話である』」
C09050718500、7/46

 ここまで読めば分かるのだが、藤井の言う「移る方」とは実は「すぐに北方へ移る」、つまり即時北進を意味している。佐藤のように移るとしても26~27日という意見の持ち主は、藤井に言わせれば「移らぬ方」になるのだ。「即時北進派」か「それ以外」か。藤井はそういうつもりで「移る方」「移らぬ方」という言葉を使っている。
 だがこれはあまりに誤解を招き易い使い方だ。実際、藤井の下で一緒に働いている佐藤も勘違いした。もし藤井が会議でも同じ調子で議論したのであれば、他の参加者もまた彼の言葉を誤解した可能性はあるだろう。藤井の言う「北進はダメだ」を、絶対に北進してはならないという意味だと思った参謀がいて、万が一に備えないような暴論を言うのは何事かと激昂したことも考えられる。「戦場の霧」がある中で、軍人が最悪の事態も考えて準備をするのは当然のこと。藤井の主張はそうした基本動作を無視したものと思われたのかもしれない。
 藤井の側自身も北進=即時北進と思い込んでいたとしたら、彼が会議の中で孤立感を覚えたのもあり得る話だ。例えば佐藤が藤井から聞いた話によれば、上村第二艦隊司令長官は北進説が出ると「すぐさま賛成なさった」(11/46)という。もしかしたら上村は「万が一に備えて北進も視野に入れるべき」という議論に賛成しただけだったのに、北進と聞いただけで即時北進と思い込んでしまう藤井は上村に裏切られたと思い込んだ、とは考えられないだろうか。言葉の使い方で他の参加者たちとの間にズレが存在したため、周囲と悶着を起こし孤立感を深めた藤井。佐藤もおそらくそうした会議の様子を察していたようで、史談会では悶着について「其時に何か少し誤解でもあったと思います」(8/46)と述べている。
 島村の到着によって紛糾が収まったのは、要するに藤井と同期の島村が上手いこと藤井を丸め込んだためだと思う。何しろ藤井は「やっぱり俺は何と云っても島村には敵わぬ」(8/46)と言っているくらい、島村の言うことはよく聞く。おそらく周囲に対しては藤井のメンツを立てながら、一方で藤井に対しては一緒に東郷と会うなどの対応を取って上手く納得させながら、事態を収めたのだろう。
 午後3時説に藤井がただ一人反対したことになっている松村文書は、やはり記憶違いが入り込んでいると考えられる。会議の中で藤井が孤立していたのは事実だろうが、その理由は藤井が述べているようなものとはずれていた。彼が孤軍奮闘したのではなく、かみ合わない議論を繰り返して空回りしていた、というのが実情ではないか。

 もし藤井の「孤軍奮闘」が実際は単なる「空回り」だとしたら、半藤本などで紹介されている「藤井のおかげで封密命令の開封時間が延期された」という説はどうなるのか。おそらく成立しなくなる。藤井は会議で悶着を起こしたかもしれないが、結局会議の結論を変えるだけの影響は及ぼさなかった、というのが私の想像だ。前回書いた種々の状況証拠がその理由である。
 北進のためには石炭が必要なのに、主力艦への石炭積載は25日中には終わらなかった。先行するはずの給炭船、給水船は25日午後8時過ぎまで出港すらしなかった。北進準備のため哨戒をやめる必要のあった第三艦隊の中には、25日深夜まで港に戻ってこない艦もあった。どれを見ても25日中に北進の決断を下さないことが事前に決まっていたとしか思えない状況である。最初から26日以降の北進決定を前提に準備していたと考えれば、いずれも辻褄が合う。
 実際に出た結論は26日正午だった。26日以降でなければ物理的に北進が不可能だった状況下で決まった結論としては、それほど遅いタイミングではない。佐藤の発言、浪速戦時日誌、特務艦隊戦時日誌で分かるように、連合艦隊内では26~27日まで待つという見解が存在したが、その範囲の中でも早い時期になったわけだ。もし連合艦隊の結論が27日だったなら、物理的に移動可能になってからもさらに1日待つという決断が下されたことになり、その場合は藤井の奮闘が功を奏したと解釈するのも可能。でも実際の結果は逆だ。残念ながら、藤井の空回りはやはり空回りに過ぎなかったと見るしかない。
 当初から26日正午と考えて準備を進めていた連合艦隊首脳部。彼らがその方針をひっくり返したのは26日黎明(C05110083400、36/37)に上海発の情報が届いたためだった。藤井のおかげではなかったとしても、際どいタイミングだったのは事実。全くもって「日本は天祐のある国である。東郷大将は幸運な提督である」("http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/774142" p44)。

 以上、具体的な証拠というよりは想像に基づいて書いてみた。強く主張できるほどの説ではない。海戦から時間が経過しているとはいえ藤井談話や史談会記録は一次史料なのだから、それを素直に受け取る方が正道だといわれればその通りだと思う。私が上に記したのはあくまで邪道。十数年後の目撃証言を無視し、同時代性は高いがあくまで状況証拠に過ぎないものを使って議論を組み立てるとこういうことも考えられる、という程度のものに過ぎない。
 ただ、25日の会議に関する話が藤井自身の談話、あるいは藤井から話を聞いた佐藤の話など、特定の人物のみに由来しているのは、史実を探るうえでは問題だと思う。やはり議事録くらいは残しておいてほしかったものだ。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック