日本海海戦前の北進論5

 承前。藤井孤軍奮闘説と一次史料について。藤井と島村以外にも26~27日まで様子を見るべきと考えていた人物が複数いたこと、その中には25日の会議に出席した可能性がある者もいることを指摘した。それ以外にも藤井説を否定できそうな史料はある。
 
 とりあえず藤井の発言を全く考慮に入れず、他の史料を基に何があったかを時系列で追ってみよう。まずは5月24日。連合艦隊が軍令部に「相当の時期まで当方面に敵艦隊を見ざれば、敵は北海方面に迂回したるものと推断」すると打電したのは午後2時15分(C05110083300、12/13)。さらに艦隊司令部は麾下艦隊の一部にも北進に関する命令を出した。
 一つは既に説明した通り、特務艦隊だ。同日付の連合艦隊戦時日誌には「連合艦隊北進準備に関し小倉特務艦隊司令官に訓令す(連機第三七二号)」(C09050284900、23/57)とある。受け取った特務艦隊の戦時日誌にある連隊機密を見ると、北進する場合に「艦隊に随航し得る速力十二節以上の給炭船及給水船を選定準備し置く」(C09050293600、6/34)ことなどを命じている。これに対し、特務艦隊は「連合艦隊北進の準備として」給炭船3隻(富士山丸、大孤山丸、宇品丸)と給水船1隻(広島丸)を「明廿五日函館に向け出港せしむることに決」(8/34)した。他の艦隊より1日早く命令を受けている特務艦隊だが、この時点で具体的に動かしている船はない。
 24日のうちに命令を受けた艦隊は他にもある。連合艦隊戦時日誌によれば片岡第三艦隊司令長官に対し、北進する場合には「第五第六戦隊仮装巡洋艦四隻水雷母艦及残余の艇隊を率いて当隊に続航せしむ之が為め予め其準備をなし置くべし」(C09050284900、24/57)と電訓している。第三艦隊所属の第七戦隊の司令部戦時日誌にも24日付でこの電訓内容が記されている(C09050308200、30/78)から、この日のうちに第三艦隊に命令が届いたのは間違いないだろう。しかし、特務艦隊と違い、こちらは特に何か具体的準備をしたという話は書かれていない。
 
 続いて25日。封密命令を交付し終えた日だが、第1艦隊司令官日誌によれば「[午]前九・二〇 旗信により司令長官司令官三笠に参集」(C09050287700、57/70)して会議が始まった。連合艦隊戦時日誌にも(時間は書いていないが)「第二艦隊司令長官以下各司令官を旗艦三笠に会す」(C09050284900、28/57)とある。
 会議の後、連合艦隊は相次ぎ命令や報告を出す。まず一つは片岡長官に「海峡北方の哨艦を[対馬の]竹敷に呼戻し熊野丸及水雷艇に北進準備を為さしむべき件」(28/57)を訓令し、第三戦隊を対馬の尾崎に帰港させるよう命じている。続いて大本営への電報では今後の計画として「龍田千早八重山は通信艦として(中略)速力十四節にて主隊より3時間先きに出発せしむ」(28/57)と連絡。さらに特務艦隊が用意した「給炭船(中略)及給水船(中略)出港沿岸航路を経て函館に向う」(29/57)ようにしたうえで、最後に通信を密接にするため三笠が鎮海湾に入った。
 こうした動きに伴って全ての麾下艦船が動き出したわけではない。例えば熊野丸の戦時日誌には、特に5月25日に何か命令を受けたとも何か行動をしたとも書かれていない(C09050448500、1/58)。通信艦として主隊より3時間先に出発する予定になっていた千早の戦時日誌にも、やはり25日には大したことは書いていない(C09050379000、53/81)。
 だが、大半の日誌には連合艦隊司令部の動きに呼応した対応が書かれている。例えば既に指摘した通り、特務艦隊は「予定の給炭船三隻給水船一隻を本日午後便宜出発大速力を以て日本北岸(中略)を経由して函館に回航し待命せしむべし」(C09050293600、11/34)との命令「特隊機密第五五六號」を出し、実際に「予定の通り給炭船三隻給水船一隻を函館に向け出発せしむ」(12/34)。出発の連絡は連合艦隊にも届いたようで、連合艦隊戦時日誌にも「給炭船(中略)及給水船(中略)出航沿岸航路を経て函館に向う」(C09050284900、29/57)と書かれている。
 海峡北方の哨戒艦を竹敷に戻す命令もきちんと伝わっており、第七戦隊司令部日誌には「鳥海竹敷発油谷湾に向いしも途中に於て同方面哨艦撤去の報を得て引還し竹敷に着」(C09050308200、31/78)との一文があるし、鳥海自体の日誌にも命令を受けて竹敷に戻った話が載っている(C09050425500、53/68)。龍田の日誌にも「艦隊は北航するやも計られず」(C09050399000、34/88)との文章が書かれている。
 24日に事前の命令を受けていた第三艦隊はこの日、麾下の各艦に訓令を出した。内容は「或る時期まで当方面に敵艦隊を発見すること能わざるときは連合艦隊は高速力を以て津軽海峡大島[渡島]に直進す」「航行序列は追て之を令す」「各艦艇は長途の航海に堪え得る如く速かに炭水糧食其他軍需品を満載し特に石炭は出来得る丈け甲板積をなす等努めて多量を積載」「残余の艦艇は当方面に留め置き山田第三艦隊司令官の指揮を受け」るといった内容だ。
 この命令が25日に出されたことは橋立(C09050390800、25/63)、千代田(C09050393100、28/82)、須磨(C09050399900、42/59)、扶桑(C09050403700、72/90)などの戦時日誌を見れば確認できる。また同日、三笠から第一艦隊や第二艦隊といった主力艦向けに「艦隊は北方に移動するやも計り難し成るべく多量の炭水を補充し置くべし」との命令も出されていたことが八雲(C09050388900、29/86)、日進(C09050375100、61/71)、敷島(C09050356400、53/83)などの日誌からも分かる。
 つまり、一部の司令部に先行した命令が24日中に出されてはいたものの、大半は25日になってからようやく命令が出た状態であり、しかも一連の命令のうち実際に船舶の移動までに至ったのは給炭船、給水船の先発だけだったのである。他の艦船は25日の時点で北進の可能性に触れた命令を受け、ようやく北進に必要な石炭と水の積み込みを始めたところだった。
 
 以上を踏まえたうえで松村文書に書かれている藤井談話を改めて調べてみる。藤井は北進の準備として連合艦隊司令部が「五月二十五日午後三時開封の密封命令を各艦に配付し」「特務艦の一部は既に二十五日朝北上の途に就いた」(藤村大将を偲ぶ、p79)と述べているが、これらが他の一次史料と矛盾していることは既に指摘した。ただ、藤井説を擁護しようと思えば「封密命令の開封時間について各艦には信号で合図としていたが、司令部内ではその時期を25日午後3時に事実上決めていたのではないか」と主張することも可能だ。しかし連合艦隊司令部がそう考えていた証拠はあるだろうか。
 上に縷々述べてきた話は、この主張を否定できるだけの状況証拠になると思う。何しろ北進に必要な石炭や水をできるだけ積み込めという指令が主力艦に届いたのは25日の午前9時ごろ(敷島は旗信の受領時間を午後9時としているが、これはおそらく午前9時の書き間違いだろう)。実際にはそれから給炭船が順番に各艦を回って石炭積み込み作業をしているので、例えば三笠の場合積み込み開始は午後1時11分で終了が46分(C09050340500、70/87)、日進は午後0時5分開始で午後2時50分終了(C09050375100、60/71)、敷島は午後1時46分開始で午後3時5分終了(C09050356400、53/83)、富士にいたっては翌26日午後になってようやく「英炭六十二噸を搭載す」(C09050349400、45/47)る有様だ。本気で25日午後3時の命令開封を考えていたのなら、もっと早く石炭積み込みを命じる筈。
 先行して津軽方面に向かい、「[連合]艦隊出発の後(中略)艦隊の到達時日を計り(中略)陸奥権現崎南方泊地来り居らしむ」(C09050293600、9/3)ことになっていた給炭船3隻、給水船1隻が実際に出港したのは、富士の戦時日誌によれば25日の「午後八時十分」(C09050349400、43/47)。もし25日の午後3時に命令が開封されていたとしたら、それから5時間以上も後になって先行するべき給炭船及び給水船がのんびり出発していたのでは間に合わなかっただろう。これらの船は特務艦隊が24日から用意していたものだが、実際に出発命令が出たのは25日の午後。連合艦隊司令部が25日午後3時にも北進を決断するつもりだったのなら、もっと早いタイミングで出発命令が出ていただろう。
 もっと拙いのは哨戒に当たっていた第三艦隊。もし本気で即時北進が必要ならすぐに哨戒を止めて帰港させ、それから必要な石炭と水を積み込んでいつでも出発できるようにしておかなければならない。だが例えば千代田は「尾崎湾在泊の厳島より『尾崎湾に碇泊せよ錨地三』との信号あり依て午後零時五十五分尾崎湾に投錨し炭水を補充す」(C09050393100、27/82)と日誌に記しており、午後になってようやく炭水の補充を始めたことが分かる。さらに酷いのは鳥海で「竹敷指揮官より直ちに引き返し当地に帰れ」との命令を受けたのは25日の午後1時35分(C09050425500、53/68)。実際に竹敷に帰り着いたのは実に午後11時25分と日付が変わる直前だ。
 連合艦隊ほどの大組織が命令だけですぐに動き出すわけはない。事前の準備が色々と必要なのである。そして当然、連合艦隊司令部の参謀たちや司令長官、司令官たちはそうした実情をよく知っていただろう。そう考えると、25日の会議の時点で午後3時開封が既定方針になっていたとはとても思えない。もしかしたら最も早い開封時間案として午後3時というのがあったかもしれないが、その場合でも開封から実際に動き出すまでは相当の時間を要したことだろう。藤井が抵抗したと言われている「午後3時開封」だが、状況証拠を見る限り司令部の総意であった可能性は極めて低いと見る。
 
 これでほぼ終わりだが、蛇足をもう一回。
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