日本海海戦前の北進論4

 承前。松村文書や史談会に書かれている話はどのくらい裏付けがあるのか。
 
 まず「東郷はずっと対馬説で変わらなかった」かどうか。これは他の史料を見る限り無理筋な主張である。何しろ連合艦隊による北進の準備が着々と進んでいたことを示す史料は、封密命令以外にも多数あるのだ。例えば特務艦隊戦時日誌には24日に受領した「聨隊機密第三七二號」(封密命令の一つ前に出された命令)の文章が記録されているのだが、そこでは「相當の時期迄當方面に敵艦隊を見る能わざるときは聨合艦隊は急速津軽海峡大島[渡島]に移動せんとする豫定なり」(C09050293600、6/34)と書かれており、連合艦隊司令長官東郷平八郎の名もはっきりと記録されている(7/34)。
 特務艦隊だけではない。第七戦隊司令部戦時日誌にも24日の項目に、連合艦隊司令長官から第三艦隊司令長官宛の電訓として「相當の時期まで當方面に敵艦隊を発見する能わざる時は敵艦隊は北海方面に迂回したるものと推断し聨合艦隊は十二海里の速力にて津軽海峡大島に直航す」(C09050308200、30/78)と記録されている。軍令部に送ったとされる電報の中身と基本的に同じ文章だ。この時点で東郷を含む連合艦隊司令部全体が北進の準備に向けて動き出したことは間違いないだろう。
 もちろん「本心は対馬だと思っていたが、万が一のために北進の準備もしていただけだ」という水野広徳「此一戦」の解釈もあり得るだろう。しかし25日になって「明日正午迄當方面に敵影を見ざれば當隊は明夕刻より北海方面に移動す」(C09050284900、28/57)と軍令部に打電した段階になると、もう「万が一」どころの騒ぎではない。明らかに北進を前提にした対応を打ち出しているからだ。それでもなお「本心では対馬だと思っていた」と主張することはできるかもしれないが、問題なのは心の底でどう思っていたかではなく実際に何をしていたか。北進決定の日時を定め、給炭船給水船を先行させていた段階でなお「東郷は揺らがなかった」と言うのは説得力がなさすぎる。
 中には東郷でなく幕僚が北進話を進めていたのだと主張する向きもある"http://ww1.m78.com/russojapanese%20war/tsushima%20apt.html"が、もし本気でそう思っているのならそれはつまり「東郷は部下の監督すらろくにできない無能司令官だった」と主張しているのと同じである。幕僚が勝手に暴走して東郷の認可も得ないまま麾下の艦隊に24日から命令を出し、25日には軍令部に打電して給炭船給水船を先発させていたのだとしたら、連合艦隊はもはや組織としての体をなしていないに等しい。いくら何でもそれはないだろう。
 要するに史談会で飯田、佐藤、小笠原らが主張していることと、実際に残されている日誌類の記録とは整合性に欠けているってことだ。では両者のどちらを重視すべきか。当然、日誌類である。残されている戦時日誌は、リアルタイムで書かれたものではなくおそらくそれを清書したもの(ほとんど書き損じがない)である。だが、それが1ヶ月ごとにまとめて翌月には海軍大臣に提出されていたことは残されている史料を見ても分かる。つまり、日誌類の方が断然史料としては古いのだ。また日誌類は公式記録としておそらく複数の関係者がチェックしているのに対し、史談会では個人が過去を思い起こしながら話している。記憶違いや勘違いが入り込む余地は後者の方が圧倒的に大きい。
 史談会が開かれた頃には東郷の神格化はかなり進んでいただろう。小笠原の「東郷元帥詳伝」が出版されたのは1921年。史談会はどんなに早くてもこの年に開催されたものだ。既に東郷無謬説が充分に広まっている段階であり、史談会に出た面々が東郷(というか海軍の体面)に気を遣って発言していたことは充分に考えられる。東郷以下の連合艦隊は北進の準備を着々と進めていた、というのが史実だ。
 
 では藤井の孤軍奮闘説はどうだろうか。こちらは東郷ほど話がシンプルではない。そもそも連合艦隊司令長官だった東郷なら連合艦隊の動向全体から彼の意図を推し量ることもできるが、藤井は第二艦隊の参謀長に過ぎない。彼自身の主張を裏付ける(あるいは否定する)具体的な行動なるものを探すのは簡単ではないのだ。でも、できないことじゃない。
 藤井の談話によれば彼は25日の会議で即時北進には反対だと「只一人のみ主張」(藤井大将を偲ぶ、p80)したという。これはどこまで本当なのか、そう思って色々と史料をひっくり返すと面白いことが分かる。すぐに北進するのではなく、5月26~27日まで待った方がいいと考えていた人間が、実は彼以外にも大勢いたという事実が。
 一人は、本人の証言によれば第二艦隊参謀の佐藤鉄太郎。彼は史談会で、25日の会議前に藤井とかわした会話について以下のように言及している。
 
「[藤井参謀長が]『君は[北方へと]移らぬ方か』『いや私は移る方です』と云うと、『何時移るのか』と云われるから『夫れは二十六、七日頃です』と答えました『そんなら君は二十七日頃になってから移ると云うのなら移らぬ方じゃないか』、『いや移るですよ』と云うと『可笑しいな、君は移らぬ方の主張じゃないか』『今移ると云うのですか、それはとんでもない話である』参謀長は『そうすれば第二艦隊の意見として移らぬ方を主張して差しえないか』と云われるから『差支えありません』と云うた」
C09050718500、7/46
 
 いつ北方へ移るかとの質問に佐藤は26~27日と答えており、今すぐ北進することについては「それはとんでもない話である」としている。佐藤自身は会議に出ていないが、藤井にしてみれば自分の部下は少なくとも自分と同意見だったわけで、北進に反対する際にも個人の見解ではなく第二艦隊参謀の総意として反対できたはずだ。
 もう一つ、別の人間が「相当の時期」はまだ来ていないと判断していたことを裏付ける史料がある。軍艦浪速の戦時日誌がそれだ。艦長である和田賢助の名で海軍大臣に提出されたこの日誌には、5月23日付で以下のように書かれている。
 
「此日情報によれば敵の第二艦隊は十九日午前九時北韋廿度零分東経百廿一度零分の地に漂泊しありたりと云う。該地点は去る十五日午前二時に於ける地点を距る約六百六十四海里にして四昼夜と七時間を費せるものとすれば其平均速力六海里半なり。若し洋中に於て載炭等の為漂泊に要したる時間を約一日半と想定し之を除くときは実際の航走速力は尚お十里内外なるべし。同地点より対馬海峡まで一千三十海里にして十海里の速力にて直航し来らば四日七時間を要すべく廿三日正午頃迄には到着すべき筈なるも更に載炭等の為め尚お二三日の間は洋中に空費すべきが故に遅くも廿六七日の正午頃には敵と砲火の間に相見るを得べきなり」
C09050366300、14/38
 
 ごく簡単な計算からバルチック艦隊の到着予想日時を5月26~27日と書いている。連合艦隊司令部が北進の下準備を始める24日よりも前の段階で、これだけ正確に相手の動きを予想している人物がいたのだ。司令官でも参謀長でもなかった和田は25日の会議には出なかっただろうが、彼が艦長を務めていた浪速は第4戦隊に所属し、第二艦隊第四戦隊司令官の瓜生中将旗艦でもあった(C05110084400、1/62)。和田が瓜生に自分の考えを伝えていた可能性は充分にあるし、その瓜生が25日の会議に出席していたことは史談会における森山の証言(C09050718500、10/46)からも窺える。
 もっと決定的なのは特務艦隊戦時日誌である。艦隊に先行する船を選ぶといった作業があるため一足先に北進への準備を進めていた特務艦隊では、24日の日誌に以下のようなことが書かれている。
 
「(註)敵艦隊本月十九日午前九時「バタン」海峡東経百廿一度北緯二十度の地点に顕はれたる以来事後の情報全く絶し一意対馬海峡に向へるや果た太平洋航路を採りて津軽、宗谷両海峡方面に迂回せしや杳として知ることを得ず敵艦隊の速力と時日の推算は今後二、三日間敵情を得ることなければ我が連合艦隊は断然北海道方面に進転するの利多しと判断せらる蓋し現下敵の唯一の希望は百計を尽して一と先ず浦塩港に到達せんとするものにして敢て主力の決戦を求むるものにあらずと認められたればなり」
C09050293600、7/34
 
 24日時点から「二、三日」経過して、つまり26~27日になっても情報がないなら北進すべきとの意見だ。佐藤や和田と全く同じ予想がここでも行われている。特務艦隊の日誌は艦隊司令官の名で海軍大臣に提出されており、当然この文章も司令官(この時点では小倉鋲一郎)の了解の上に書かれたと見るべきだろう。そして25日時点で特務艦隊司令部は鎮海湾にいた。普通に考えれば司令官らが呼ばれた25日の会議に小倉も出ていたと見られる。
 もちろん出ていなかった可能性もある(25日の特務艦隊戦時日誌には会議の話は載っていない)し、出たとしても彼が北進に反対したとは限らない。少なくともそういった史料は見つからなかった。瓜生についても同じ。これらの史料は会議で北進反対論者が藤井&島村以外にもいたことを明白に立証するものではない。だが、これだけ多くの「26~27日まで待つ」説の持ち主が連合艦隊内部にいたという事実は、藤井談話や史談会における佐藤の話、即ち「藤井孤軍奮闘」説について疑問符をつけるに充分な材料になる。
 
 さらに次回。
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