承前。即時北進説に関して疑念を抱いていたのは藤井較一と島村速雄だけだったのか。
という疑問について調べる前に、そもそも藤井と島村が即時北進説に反対したという主張がどのソースから出てきたものかについて説明し、そのソースがどれほど信用できるのかを検証するべきだろう。私の見つけた範囲ではあるが、主なソースは2つ。1つは半藤本に書かれている「大正十四年六月、当の藤井較一元参謀長がその最晩年に、かつての部下であった松村龍雄中将(海戦当時・三笠副長・中佐)に語ったこと」("
http://books.google.co.jp/books?id=4eZCkT-8-EkC" p110)である。
これは「海軍大将藤井較一事跡」なる本(?)に松村が寄せた「藤井海軍大将逸事」なる一文に書かれていたものが元ネタであろう。図書館で見つけた「藤井大将を偲ぶ : 没後60周年記念誌」という本のp74-82にこの文章が引用されており、その中に松村が藤井から聞いた話をまとめた「津軽海峡転位についての会議の真相」なる文章もある。半藤本で引用されている「何分只一人のみ主張するのみにて、他は全部転位説であり、殊に頗る激昂のものもあり、如何に縷々説述するも、殆ど耳を藉すものなき光景にて、あはや転位説に一決せられんとする有様なり」("
http://books.google.co.jp/books?id=4eZCkT-8-EkC" p111)もここから採られている。
問題は、半藤が指摘しているようにこの談話は海戦から20年も後に話されたものであり、当然ながら種々の記憶違いが入り込んでいる可能性があること。実際、細部を調べてみると実に間違いが多い。まず藤井は北進説について「連合艦隊司令部では之れに決し、五月二十五日午後三時開封の密封命令を各艦に配付し」(藤井大将を偲ぶ、p79)と書いているが、他の一次史料には軒並み「信号」の合図で開封することになっていたと書かれていたのは既に指摘した通り。私の調べた限り、25日午後3時という日時を書いているのはこの談話だけである。
さらに「先発として八重山其の他特務艦の一部は既に二十五日朝北上の途に就いた」(p79)という文章もあるが、これまた間違いとしか思えない。まず八重山は特務艦隊所属ではなく、第5戦隊の通報艦という立場にあった(C05110084400、2/62)。八重山自体の戦時日誌には25日の行動として「哨区出動午前九時三十分直ちに哨区を引上げ尾崎に帰り炭水補充をなせの電訓あり速力を増し尾崎に向う五時十分尾崎湾投錨給炭船宜蘭丸より炭水を補充す」(C09050424300、36/92)としか書かれていない。25日に北上を始めたどころか、この日は対馬の尾崎で延々石炭と水の積み込みに時間を費やしていたのである。
特務艦隊が24日のうちから北進準備を命じられていたことは事実だが、彼らが実際に北上を始めたのは25日の朝ではなく午後だ。同日、連合艦隊から命令を受けた特務艦隊は、前日のうちから用意していた給炭船(富士山丸、大孤山丸、宇品丸)、給水船(広島丸)に対し「予定の給炭船三隻給水船一隻を本日午後便宜出発」(C09050293600、11/34)するよう命令を出している。出発は午後、つまり25日朝の時点では先行する給炭船給水船すらいまだ「北上の途」についてはいなかったのだ。
結論から言うと松村文書はとても全面的に信用できるようなものではない。20年も前の出来事について回想しながら語ったのだから不正確なのは当たり前だ。もちろん当事者の発言とされているのでこれも「一次史料」と見なすことは可能なのだが、取り扱いには注意しなければならない文献だ。
もう一つは「日露戦役参加者史談会記録」である。こちらは日露戦争に参加した参謀たちが後に集まって鼎談したものだ。おそらく飯田久恒と思われる人物が中将の肩書きで登場するので、この史談会が開かれたのは少なくとも1921年(海戦の16年後)より後である。これまた記憶違いなどが入り込む余地の大きな史料であることをまず頭に入れておく必要がある。
ここで松村文書と似たようなことを述べているのは佐藤(鉄太郎?)。彼が藤井から聞いた話として紹介しているのは、上官である上村に北進説には保留の態度で臨むよう予めお願いしておいたが「所が上村長官はすぐさま賛成なさった、それで自分[藤井]の立場が非常に困った、その時島村司令官は磐手に居られたが、錨場が遠いから一番遅れて来られた、遅れて来られてその前の状況を何も判らずに北進説に付いてはどうもと云うことで(中略)それで島村さんが『もう暫く此処にお居でになる方が宜し』、そう云われると、それが非常に効目があって[東郷司令]長官は同意された」(C09050718500、11/46)というものだ。
一読して松村が記録した藤井談話と非常に似ている。どちらも藤井自身がソースなのだから似ているのは当然といえば当然なんだが、第二艦隊の主席参謀だった佐藤は会議の直後に参謀長の藤井から聞かされた話を紹介している可能性がある。もしそうだとしたら、20年後に松村に話すときもほとんど内容が変わっていなかった訳で、それだけ藤井の記憶はしっかりしていたとも解釈できる。上に記した通り八重山や特務艦隊の話は違っていたが、会議の内容に関する話自体は案外正確だったのかもしれないのだ。
だったらやはり藤井こそが北進説を食い止めた当事者ではないか、と見なすのも可能だろう。しかしそう断言するには問題もある。会議の内容について藤井以外のソースが見当たらないのがそうだ。史談会には藤井の部下だった佐藤以外にも飯田(久恒? 第一艦隊参謀)、小笠原(長生? 軍令部参謀)、森山(慶三郎? 第四戦隊参謀)、財部(彪? 大本営参謀)らが参加しているのだが、自ら会議に出席した者は一人もいないし会議の中身について藤井以外のソースに基づいて話している者もいない。
飯田は「会合の様子は私は全く知りませぬ」(4/46)と言っているし、小笠原は東郷の話として「俺は会議を開かなかった、それは加藤[友三郎]が集めて種々のことを聞いたかも知れぬけれども、俺はその席には居らない」(9/46)と話している。森山も「サッパリ知って居りません」(11/46)という具合で、要するに佐藤以外に会議の内容に言及している参加者はいないのだ。会議内のやり取りについては藤井経由の情報しかないのが実情である。
他にソースがないのだから信じるしかない、というのも一つの見識だろう。史料を尊重するのなら史談会も松村文書も立派な史料だし、明確に否定する他の史料がなければこれらを受け入れるべきであるという考えには一理ある。でも、史談会の発言を受け入れるとなると、藤井の奮闘以外にも受け入れなければならない説が出てくるのだ。他ならぬ「東郷は一貫して対馬で待つつもりだった」説である。
第一艦隊参謀で東郷の近くにいる頻度が最も高かった飯田は、三笠の幕僚たちとの会話から「東郷大将の最後まであすこは頑として動かぬと云う御決心は伺われます」(5/46)との判断を述べている。東郷神格化を進めた張本人とされる小笠原は、東郷の話として「その後で島村と藤井が俺の所へ来て島村が閣下は敵の海軍が何処から来ると思いますと聞くから、『それは朝鮮海峡だよ』」(10/46)と言ったことを紹介している。
佐藤ですら東郷の「あの時加藤が来て向に参るかと言うて居るから『次の情報を待つさ』とそう云って置いた」という話を紹介し、さらに島村と藤井が訪れた件について「あれは全く自分[東郷]の考と同じだから、そうだと決めて其通りいうた」と答えたことにも触れている(9/46)。要するに関係者はこぞって「東郷揺るがず」説を支持しているのである。
内容の不正確さを見ても松村文書だけだと信頼性に乏しい。史談会まで入れれば信頼性は高まるものの、引き続き「藤井のみがソースで他の参加者による裏づけが取れない」問題が残る。おまけに史談会の見解を受け入れるならそもそも東郷は「頑として」動こうとしなかったことになってしまい、連合艦隊が北進するつもりだったという説自体が怪しくなる。一体どうすればいいのだろう。
個人的には松村文書も史談会もいったん横に置き、もっと古い(つまり出来事があった直後に書かれた)史料を改めて見直してみる必要があると思う。もちろん、そうした史料には会議の内容について直接触れているものはない。調べてみても分かるのは状況証拠、間接的証拠だけである。だが、そうしたものを積み重ねたうえで改めて松村文書、史談会の話と比較してみれば、その蓋然性がどれだけ高いかを推定する材料にはなるだろう。果たして東郷は本当に揺るがなかったのか、そして藤井は本当に北進説を孤軍で押し返したのか。
以下次回。
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