まずは封密命令が交付された日だ。半藤本は5月24日としているがアジア歴史資料センター"
http://www.jacar.go.jp/"で読める「極秘明治三十七八年海戦史」によると「二十五日(中略)麾下一般に左の密封命令を発し」(C05110083400、33/37)とある。もっとはっきり書かれているのが連合艦隊戦時日誌。5月25日のところに「聨合艦隊北進に関し聨合艦隊命令(封密聨機第三七三号)を発す」(C09050284900、28/57)と、これ以上ないほど明確に書かれている。
命令を発した連合艦隊側だけでなく、それを受け取った側にも同じ記録が見られる。三須第一艦隊司令官日誌には25日に「北上に関する聨合艦隊封密命令を受領す」(C09050287700、59/70)と書かれているし、武富第三艦隊司令官の日誌にも「本日聨合艦隊司令長官より密封命令受領す」(C09050470600、26/81)と25日の日付で文言が残されている。封密命令が連合艦隊司令部から麾下の各部隊に送られたのが主に25日だったことはほぼ間違いないだろう。
ただ、全ての命令が厳密に25日になってから交付されたのではなく、一部にはもっと早く命令が届いていたようだ。小倉特務艦隊司令官の日誌には24日の出来事として「今夜聨合艦隊司令長官より封密命令を受領す」(C09050293600、7/34)とある。特務艦隊が特に早めに命令を交付されたのは、彼らが実際に北上する際には先行する立場にあったからではないかと思われるが、いずれにせよ封密命令が24日夜までには準備されていたことは事実だろう。でも、24日中に配られたのはあくまでごく一部。麾下の全部隊にいきわたって初めて交付を終えたと見なすなら、やはり交付日は25日である。
半藤本にはこの密封命令について「二十五日午後三時開封」が指示されていたと書かれているが、これもまた一次史料とは矛盾している。「聨隊機密第三七三號」(C09050629700、44/45)を見れば分かるのだが、右上に大きく「封密命令」と墨書されており、その下に「信号」という文字が見える。塚本主計官が記したように、「信号」や無線電信の合図で開封すべきものと定められていたと考えるべきだろう。
封密命令を受けた側が「其開封時期は信号若くは電信を以て通知せらるる筈なり」(第三艦隊司令官日誌)「開封は無線電信若くは信號に依て指令を受くべきものなり」(特務艦隊司令官日誌)と記しているのも証拠となる。半藤本ではあたかも封密命令が交付された時点で「25日午後3時」の開封が決まっていたかのような書き方がなされているが、一次史料を見る限り交付時点で開封時間は全く決まっていなかったと見るべきだろう。「聨隊機密第三七三號」の「開披時日」のところも空白となっており、この文書が書かれた時点で開封時間が決まっていなかったことを裏付ける。
24日に連合艦隊司令長官から軍令部へ送られた電信についても、半藤本の引用はいささか不誠実である。「極秘明治三十七八年海戦史」から厳密に引用すれば、以下のようになる筈。
「同[24]日午後二時十五分東郷聯合艦隊司令長官ヨリ、相當ノ時期マテ當方面ニ敵艦隊ヲ見サレハ、敵ハ北海方面ニ迂囘シタルモノト推斷シ、聯合艦隊ハ十二海里以上ノ速力ヲ以テ大島(渡島)ニ移動セントス、トノ電報到達セリ」
C05110083300、12/13
半藤本では「敵は北海方面に」以下の部分しか引用していないが、読めば分かる通り極秘海戦史にはその前段に「相當ノ時期マテ當方面ニ敵艦隊ヲ見サレハ」という条件がついている。この文言を見て、24日の段階で北進の「決心を打電した」と見なすのは、流石に先走りすぎだろう。連合艦隊がその判断を下すのは、あくまで「相当の時期」になってから。24日時点ではまだ相当の時期ではなかったと考えるべきだ。
実際、伊東軍令部長を含む大本営が連合艦隊に対して「特に慎重考慮せられんことを希望す」(13/13)と返事を送ったのは、上の電報を受けてほぼ24時間後の25日午後1時40分。もし今すぐにでも連合艦隊が北進しそうだったなら、丸一日も開けて暢気に返事を「熟議」している場合ではなかった筈だ。半藤本の引用は、連合艦隊がすぐにでも北進する勢いだったと誤読させかねないものである。私はこうした誤解を招き易い引用の仕方は大嫌いだ。
この24日付の軍令部宛電報にはさらなる問題がある。実は連合艦隊戦時日誌には、この電報の話がまったく載っていない。日誌には軍令部次長からの「来電」は記されているが、軍令部や大本営に宛てて打電したという話はどこにも見当たらないのだ。翌25日には「大本営へ左の通電報す」(C09050284900、28/57)という文言があるように、打電した事実を日誌に記録している事例は間違いなく存在する。なのに24日にそうした記録がないということは、打電そのものがなかったということなのだろうか。
このあたりは正確にはわからないが、電報そのものはあったのではないかと私は推測している。極秘海戦史には、日付は曖昧ながら東郷が「相当の時期まで敵を見ざるときは」(C05110083400、33/37)北進するとの「意」を伊東軍令部長に伝えたと書かれており、連合艦隊側にもこの電報を裏付ける何らかの史料なり証言なりがあった様子を窺わせている。実際、北進という大きな方針転換を考え始めた時点で上層部にそのことを全く伝えなかったとしたら、それはむしろ変だろう。具体的に決定する前に少なくとも耳打ちくらいはするはずだ。24日夜には特務艦隊に封密命令が交付されていたのだから、それより前に北進の可能性を軍令部に伝える仕事は終えていたと見る方が自然だろう。
半藤本に出てくる話のうち、もう一つ一次史料と比べておかしいのは「ここでもう一両日待つことにしよう」という東郷の台詞である。一両日というのはこちら"
http://www.nhk.or.jp/bunken/research/kotoba/qa/kotoba_qa_07080101.html"を見ると「1日か2日」または「今日か明日」という意味。古い人は前者の意味に捉えることが多いようだが、だとすれば会議のあった25日から最大2日後の27日。たとえ前者の意味だとしても26日いっぱいはバルチック艦隊を待つつもりだったと読める。
ところが実際に連合艦隊が出し、軍令部に伝えた結論は「明日[26日]正午迄當方面に敵影を見ざれば當隊は明夕刻より北海方面に移動す」(C09050284900、28/57)というものだった。25日の会議は三須第一艦隊司令官日誌によれば午前9時20分(C09050287700、57/70)開始、連合艦隊から軍令部への電報が到着したのが午後3時37分(C05110083300、13/13)なので、結論が出たのはその中間の正午前後だろう。そこから24時間待って動きがなければ北上を決断する場合、普通「一両日待つ」とは言うまい。「明日正午まで待つ」「24時間待つ」という方が自然ではないか。
封密命令が出されたこと、25日に会議が開かれたこと、そこで激論が交わされたことなどはおそらく事実だろう。「日露戦役参加者史談会記録」によれば、会議参加者に後から話を聞いた佐藤中将が「彼處で種々悶着があったらしいです」(C09050718500、8/46)と証言している。しかし、こうした基本線ではなく枝葉の部分について見るなら、半藤本にはおかしいところがいくつかある。そしてそのいずれも「ほぼ決まっていた北進方針を藤井が反対してひっくり返した」という印象を強めるように作用している。
実際に封密命令の交付が終わったのは24日ではなく25日だった。封密命令を「25日午後3時に開封する」という指示はなく、開封は信号によるとなっていた。24日に軍令部に届いた連合艦隊の電報には「相当の時期まで」という前提条件が書かれていた。そして連合艦隊が25日の会議で決めたのは「一両日」ではなく26日正午まで待つことだった。一つ一つは些細な違いに過ぎないが、これらを全て入れ替えたうえで改めて半藤本に目を通してみると、一つの疑問が浮かんでくる。本当に連合艦隊の上層部は、藤井と島村を除いて北進説で固まっていたのか。
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